教育者・岩石鉱物研究家、保科百助(五無斎)
<ばけばけ>(NHK) けなげなヒロインを応援。そして舞台が今の松江から熊本になるといいなぁと思う。それは8年前のブログ記事(右列バックナンバー)のため。
けやきのブログⅡ<2017.6.10 秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校>
「ばけばけ」ヒロイン祖父の丁髷(ちょんまげ)を見るたび、大正生まれの母の「近所に丁髷のおじいさんがいた」という話、ホントなんだ!
1871明治4年、散髪脱刀令。
1890明治23年、ハーンこと小泉八雲来日。
散髪令から約20年たつが江戸時代の暮らしはそう簡単に変わらない。というか変えられない。ただでさえ習慣を変えるのは容易じゃない。そう思えば、大正期の丁髷(ちょんまげ)高齢者、他にも居たに違いない。
ちなみに、母のおじいさんは丁髷じゃなく長い白ひげだったとか。
現代では長鬣(チョウリョウ・ながいひげ)の人を見ないが、昔の軍人や高官は髭を蓄えていた。権威の象徴であったかもしれないが、それとは関係ない髭の人物がいた。信州の教育者・岩石鉱物研究家の保科百助である。
保科 百助 (ほしな ひゃくすけ)
1868明治元年、長野県北佐久郡横鳥村(立科町)名主の三男に生まれる。
♫いや高く、いや大なる立科の 山の谷々、かぎり知らずも--- 保科氏は実にその谷の一つに生れた。この山国では、幼児が、石臼に帯で結びつけっれて這ひまわりつつ育って行く。これを保科は石臼法となづけた。・・・・・・身長五尺七寸に近く、体重は二十貫を超え、赭ら顔にして隆準、その風貌は堂々たるものである。生れながらにして自然科学に興味を有し、・・・・・・書物からではなく、実物教育から悟入したのはさすがに信州の大自然の懐に哺まれたのである。・・・・・・(『師範出身の異彩ある人物』)。
1886明治19年、長野県師範学校入学、5年かけて卒業。
以後10年間、県内各地の小学校訓導・校長を歴任。この間、岩石鉱物の採集につとめる。
師範学校:教員養成を目的とした学校、各府県に開設。
1895明治28年、武石小学校に奉職。実物に基づいた理科教育を行った。
(生徒が)標本の小なるもの一個持って来・・・・・・工学士高橋雄次郎君に託して鉱物学の研究家、高壮吉君(のち東大教授)に託す。これ緑簾石、石灰、鉄、礬土の硅酸盬類なり・・・・・
1898明治31年、長野県小懸郡武石村小学校勤務。
信州産長石、同斜長石、同沸石、介化石 → 人類学上標本(官報1898.4.15)
1901明治34年、33歳。各地の学校長も勤めたが、意を決して教職を辞し長野県内各地の鉱物採集に専念。当時としては先進的な長野県の地質図まで作った。
信州の方言で「ごむさい」きたならしいことを意味するが言葉のもとは保科百助。
彼は「五無斎」と称し県下各地の山や谷を歩き、汚れた格好をまったく気にしなかった。
---調査先では周辺の教員に声をかけ、大地の生い立ちを解説したことから、感化を受け地学を学ぶ教員が各地で探勝した・・・・・・信州の自然の素晴らしさ面白さを見抜いた彼は、大地の生い立ちを探求する心を人々に植え付けてていった。・・・・・・(「みどりのこえno35」)。
1903明治36年、「長野県産地学標本」243種100組を完成。
---ニケ年の旅にかな気は抜けにけり鍋釜ならばさぞやよからん
信州の山河を跋渉して採集せる岩石鉱物化石および土器等は---本県いな日本帝国の奇人、変人、偉人、磊落家たる教育家・・・・・・
1907明治40年3月、信濃教育会図書館設立を決める。
創立委員の一人が保科百助(五無斎)・・・・・・県立長野図書館の登館者は必ず、大閲覧室において偉容の人物写真、これ信州教育の一面を代表する保科氏の姿である(「県立長野図書館十年市史」)。
1910明治43年、「信州産岩石鉱物標本」120種600組を完成。
県下の学校ほか中央諸機関に頒布。地質学の研究者として名を成す。
地学を中心に実物教育という面から長野県の理科教育の発展に貢献
武石小学校と大豆島小学校の校長時代に機業染色講習会のリーダーシップを発揮
大豆島小学校では部落差別の解消と被差別部落の生活改善にもつとめた。
各種実業教育の啓蒙と普及に活躍。
筆墨行商
社会的な講演活動
信濃教育会付属図書館創設のため、狂奔的な奔走
衆議院議員選挙への立候補
貧困のため通常の中等教育を受けられない子弟のために私立保科塾を開設。
「保科塾」煙草盆大の銭函あり、箱の両脇に
一、授業料は毎月二十日より二十四日までの間にこの函にお投入すべし
二、授業料は紙包となし、金額を記入するは勿論なりと雖も自己の姓名は之を認むべからず
三、授業料は五銭以上随意なりと雖も、百円以上に上るを許さず
保科塾に学ぶ者日に百五十人、しかも収むる所の授業料の総額は塾費を支弁するに足らず保科君銭函を撫して謂つて曰く惟を垂れて徒に授く天下の快事これより大なるはなし・・・・・・(『帝国信興名鑑 長野県之部』)。
?年:週刊新聞『信濃公論』発刊。
?年 ---教育界の社会的独立を持論とし、『信濃公論』誌上で教育宗総本山管長を呼号、ばしば総本山辞令および訓令を発表して県の教育行政上の不当な人事を手厳しく批判、教職の権威の向上と尊厳をまざした。鋭い舌鋒、機知と奇矯な言動は、「無頼なる先覚者」「アウトサイダーの教育者」といわれるゆえんである。・・・・・・(平沢信康)。
五無斎と号して漫遊奇行を好み、風狂の精神に生き『読売新聞』の「奇人百種」第一等入選作品で紹介され、ますます世間に知られるようになった。
狂歌集『よいかかをほしな百首ケ』刊行。
長野市での名士歓迎会、師範学校卒業式において押し売り演説・飛び入り演説をしばしば敢行,高談放論をたくましくした。また、鉱物以外にも、織物標本など各種の標本を作製、晩年に至るまで博物教育に情熱を傾けた。
駄洒落とユーモアのセンスに富み、同時に激しい批判精神をもつ自由人でもあった。
1910明治43年2月、『岩石鉱物新案教授法:一名・Nigirigin式教授法第一編』出版。
1911明治44年、死去。 享年43。
「保科百助君と信州地学」
・・・・・・君が終生の知己にして、常に誘掖提撕を垂れられし理学博士 神保子寅先生は、嘗て「精密なる保科百助君」と題し言を寄せて曰く、
「或時は印半纏に古き帽子、或時は新調のフロックコート 或は紋付き羽織袴その服装は変われども君が精密の性質は少しも乱るるところなし、君が岩石鉱物教授法は故らに表紙その他に好奇の文字を附したれども、所論は熟成にして時弊を通論せる所実に同情に堪えざらしむるものあり。 この書の序文に一身の経歴を述べ・・・・・・然れども君は世に珍しからぬ無用の奇人に非ずして実用の為に生まれしなり、君が偉業の一として我が鉱物階の為に新しき材料供せし・・・・・・また我が理科大学(東大)鉱物学教室の列品室には君が長野県地学標本ありて、永く地方標本の一模範たり、君が病に伏すやたちまちにして恍惚、世に離れて夢中の夢を観つつ逝けり、悲しむべく又羨ましと・・・・・・(『信濃鉱物誌』八木貞助1923古今書院)。
常識人ではあったが、ときに社会的慣習を破って良心の命ずるまま徹底した自由の境地に生きた彼は、一部の当局者には蛇蝎視されたが、多くの民衆からは「ごむさいさん」として親しまれた。
長野市西長野の賀茂神社や出身地の津金寺に彼を偲ぶ石碑が残されている。
我国で二人男を見立つれば 保科五無斎 佐久間象山
国の為め君の為めとて盡す身は 何のはじかる事かあるべき
明治四十三年正月 東京本郷の木賃ホテルに於て
五無斎保科百助謹んで誌す
参考: 国会図書館デジタルコレクション / 『民間学事典』1997三省堂 / 『師範出身の異彩ある人物』横山健堂1933南光社 / 「信州地学の祖 保科五無斎」田辺智隆「みどりのこえno.35」 / 『宣伝十二年』藤森良蔵1922考へ方研究者 / 『帝国信興名鑑 長野県之部』丸山孝1904信興社
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