白鳥は悲しからずや海の青空の青にも染まずただよふ 若山牧水
年末、気分だけはせわしない。実際忙しいのに「気分だけ」なのは昔も今も大掃除をさぼるから。そしてそんなときに限って暗唱した詩歌が浮かんだりする。
たとえば、若山牧水
白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ
幾山河越え去りゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
若山 牧水 (わかやま ぼくすい)
1885明治18年8月24日、宮崎県臼杵郡本郷村(ほんごうそん)の医家の長男に生れる。
本名・繁。祖父・健海は蘭学を修め日本において初めて牛痘を自ら試みた先覚者であるといわれている。
母マキは延岡藩(宮崎県)代官の娘。
牧水の牧水の牧は母の名にちなみ、水を愛したことにより、牧水。
1899明治32年、14歳。延岡中学入学。3年から短歌を作りはじめる。
1904明治37年、 卒業後、早稲田大学英文科入学。
友人と雑誌『新声』歌壇の選者、尾上柴舟(歌人・書家)を訪ねる。
北原白秋(射水)・中村蘇水とともに早稲田の三水と自称して交友。
1905明治38年9月、ポーツマス条約調印(日本の韓国保護承認、南樺太・遼東租借権)。
1907明治40年、この頃、旧友と武蔵野を歩き短歌を『読売新聞』掲載。
1908明治41年、23歳。処女歌集『海の声』出版。早大卒業。
この年、『海の声』の女性、小枝子との恋愛問題で苦悩する。
1909明治42年、徴兵検査、丙種。
1910明治43年、韓国併合。
歌集『別離』、評判を得る。
1911明治44年、歌集『路上』刊。やまと新聞・社会部記者となる。
1912明治45年/大正元年、大和新聞退職。『牧水歌話』刊。
4月、石川啄木の臨終を看取る。5月、太田喜志子と結婚。
1913大正2年、小石川(文京区)に借家。実家で出産の妻と長男を呼び寄せる。
第六歌集『みなかみ』刊行。
---牧水にとってこの頃が、文学的にも生活的にも苦しい転期となっている。
ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋も霞のたなびきてをり
納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝の意志をまぐるなといふが如くに
傲慢なる河瀬の音よ、呼吸はげしき灯のまへのわれよ、血の如き薔薇よ・・・・・・(中略) ・・・・・・これらは破調が多く、句読点が打たれ、「ふるさとの尾鈴山」のような豊かな安定感とはちがい、生のはげしさが、強いうめきの如くに歌い出されている・・・・・・(窪田章一郎)。
1914大正3年、歌集『秋風の歌』刊。
1915大正4年、自選歌集『行人行歌』刊。
長女誕生。神奈川県三浦に転居。
1916大正5年3月、東北に旅行、各地をめぐって5月、三浦に帰る。
文集『旅とふるさと』刊。
7月、単身上京、本郷に下宿。
12月、三浦半島をひきあげ小石川金富町に転居。
1917大正6年、32歳。東京郊外の巣鴨に転居。
8月、妻・喜志子と合著の歌集『白梅集』刊。喜志子も歌壇から認められる。
1918大正7年、2月、次女誕生。
伊豆土肥温泉、奈良・南紀・伊勢・群馬から信州へ旅。
1919大正8年~1926大正15年、処々方々へ旅。
1923大正12年9月、関東大震災
1927昭和2年、42歳。
5月、妻とともに朝鮮を揮毫旅行、体力を消耗する。
1928昭和3年9月17日、肝硬変と胃腸炎のため死去。享年43。
牧水死後。
妻・喜志子は自ら『創作』を主宰発行。
---牧水在世時にあっても経済的に恵まれず苦労を重ねたが、その没後は、プロレタリア文学運動がかづよさを勃興する時期にあって『創作』経営面においても苦闘・・・・・・その結果、人間としての大成をみ、歌境も進展していった。その歌風は牧水を継承するもので平明・着実・・・・・・時流に染まず・・・・・・一面女性らしい、鋭い感受性を示している・・・・・・(山崎敏夫)。
参考: 窪田章一郎『現代日本文学大系28』1980筑摩書房 / 山崎敏夫『現代日本文学大事典』1965明治書院
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白鳥はかなしからずや海の青空の青にも染まずただよふ
この歌に感動、共感していたが年譜をたどるうち、白鳥が画中の空を漂うもののように思えてきた。
なぜなら年譜をたどると、友人知人が数あり理解ある妻にも恵まれてるではないか。
牧水は創作のために心の趨くままに旅し、住居も変えたもののように思えてきた。孤独な旅人を想像していたのは違う? そんな気さえする。凡人に芸術家の境地は分からない。
この年末にきてパソコンのなぜか電源が入らなくなった。買い換えて3ヶ月なのに・・・・・・ブログの更新は出来ないわ、年賀状作成できないわ、参った。
まあどうにか戻ってきたし、文句言っても始まらない。なんとか無事に乗り越えよう。
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