« 明治日本のスキー指導者レルヒ、雪の富士登山・『岩越紀行』 | トップページ | 戦後40年は昭和末期の昭和61年、3年後「平成」 »

2026年2月 9日 (月)

『荒川放水路物語』 絹田幸恵

  2026年2月8日、衆議院議員選挙。雪に悩む地方を思えば情けないが、当地にも珍しく降り外出をためらっていた。でもそのうち止んで投票に行った。
 今回は選挙期間が短くアナログには情報が少ない。 一方、デジタルを駆使すれば真偽はさておき、瞬時に多くの情報が得られる。
 いまやAIが発達、ヒトの智慧はなおざりのようで追いまくられる。無闇に心配しても役にたたないが、この先どうなる?
 でもまぁ治水など大土木工事、事業にAIは大いに役立つに違いない。現場で事故を防ぐ手立てを示したり、不備や危険を察知するのは得意かも。
  それにしても人力中心の明治・大正時代は指揮をとるのも大変だったに違いない。
 青山士(あきら)を知ると前代未聞、明治大正期の大工事の苦労が偲ばれる(写真集 『青山士/後世への遺産』山海堂)。
 
 けやきのブログⅡ2022.3.5新潟県大河津分水路、青山士技師(パナマ運河建設)>

   青山が手がけた荒川放水路を見てみようと絹田幸恵著『荒川放水路物語』(新草出版)を手に取りひき込まれた。
 この放水路物語は大土木工事の苦労はもちろん、工事に関わった人々、工事のために家や土地を失った住民の困難も丁寧に記録している。
 その語り口は住民に寄り添い、多くの登場人物を丁寧に紹介している。そしてその淡々とした語り口が心に響く、抜粋して紹介したい。
 発行は1992平成4年。自分が知らなかっただけできっと多くに読まれたに違いない。
 それでも隅田川のほとりで生れ育ち、転居してからは岩淵水門を横目に新荒川大橋をよく渡るなど縁があり紹介したい。
 そうそう、隅田川のほとり両国の江戸東京博物館でボランティアガイドをした縁もある。  

 

     『荒川放水路物語』

  ---東京足立区の四年生の社会科で「明治の地図には荒川放水路がない」・・・・・・荒川放水路は、二〇年ぐらいかかって人間が掘った川なのです・・・・・・うそだぁ。あんな大きな川、人間が掘れるはずないよ。・・・・・・荒川放水路の工事は、明治の終りから大正をはさんで昭和のはじめまでの、世界と日本の歴史を背景に、掘削機が出現したり、不景気に見舞われたり、関東大震災に直撃されたりしながら進められていくのだった。
 歴史というものは、どこか遠い所での出来事で編まれていくような感覚をもっていた私にとって、歴史を刻むものはそこここにあり、足下から学ぶんだ、と教えられたような気がした・・・・・・

  ---悦雄さんの本家は、広大な土地をもっていたのに、放水路の立ちのきからだんだん土地をなくし、今ではほとんど土地を失ってしまった。・・・・・・放水路ができてから、毎年のような洪水はなくなった。しかし昭和二十二年には、中川の堤が切れて大水になった・・・・・・結局こちら側(川の東)は東京のために犠牲になったんだ。

  ---1923大正十二年九月一日の関東大震災では、工事中の放水路土手にあちこちに大きな亀裂ができたり、完成したばかりの堀切橋がこわれたりした。・・・・・・地震のあと火の海になった都心から、たくさんの人々が橋を渡って避難しようとした。 その時、朝鮮人虐殺がおこった・・・・・・

  ---1924大正十三年六月二十日、千住新橋の完成により、ゆれる船橋や残されていた街道を取り除いて全川に通水された。・・・・・・工事では二十二人の尊い命が失われた。
  ---広い川と高い土手。放水路によって荒川の下流一帯は大きな水害から救われることとなった。・・・・・・放水路土手の北側や東側になった人たちは「こちら側の土手は、都心側の土手に比べて一メートルぐらい低く造られている」・・・・・・ (中略)・・・・・・二つの記録によると、土手の高さは同じに造られている。けれども土手の幅は都心の方が三・六メートル分厚い。すると都心側の土手はそれだけ土砂の体積が多くなり、洪水に対して左岸より強いことになる。・・・・・・工事の専門家にきくと、「自然を相手の仕事なので百パーセント完全な工事はできない。万が一、堤が守れない時は被害の少ない方へとかんがえるしかないという。」

     流域の人びとと放水路工事

  ・・・・・・港北村の三保三さんの家の近くには、「親方」と喚ばれる人がそれぞれ幾十人もの「土工」を連れてきた。これらの人たちは、農家の物置小屋を改造した所に入ったり、広い家などに間借りをしたり、また農家の屋敷内を借り受け・・・・・・飯場にしていた。飯場では二十人から三十ぐらいの人が生活していた。・・・・・・工事の日当は一日五十銭ぐらいで日払いだった。・・・・・・
  (写真:河川敷をトロッコ押しならす・江北村)。
  (エキスカ(機械掘築堤):今の北区岩淵・大正3.10.11 荒川下流工事事務所提供)

 太平洋戦争のとき、江戸川区では、小松橋から下流あたりの放水路の土手の草を刈って軍に納める仕事をしていたひとがいた。・・・・・・放水路の土手の草が軍馬のえさになっていたのである。

     空襲と青空教室

 太平洋戦争では昭和十九年の初めごろから、日本の敗色が一層こくなり、東京もたびたび空襲されるようになる。
 昭和二十年三月九日から十日未明にかけて、東京はアメリカ軍による大空襲を受けた。

     【 放水路建設の100年 】

 1910明治43年 大水害を契機に荒川の改修計画が立てられる。
 1911明治44年 放水路事業始まる。測量・調査・用地収用に着手。

 1913大正2年  人や馬を使って高水敷を掘り始める。
 1914大正3年  浚渫船を使って河口部分より低水路を掘り始める。
 1916大正5年  岩淵水門起工。
 1917大正6年9月30日 記録的な高潮で船舶・機械流出損傷。
 1918大正7年  新川水門、綾瀬水門起工。
 1919大正8年  小名木川閘門、墨田水門起工。
 1921大正10年 木下川、中川水門起工。綾瀬川通水。
 1923大正12年9月1日  関東大震災発生。28カ所で堤防が壊れたり、裂け目が入る。
 1924大正13年  岩淵水門竣工。放水路全川に水を通す通水式を行う。

 1930昭和5年  荒川放水路工事が完成する。
 1945昭和20年 終戦。
 1964昭和39年 東京オリンピック大会開催。

 1982昭和57年 新岩淵水門竣工。
 1995平成7年  阪神・淡路大震災発生。 
       (荒川知水資料館【荒川放水路・建設からの100年】

 

 

|

« 明治日本のスキー指導者レルヒ、雪の富士登山・『岩越紀行』 | トップページ | 戦後40年は昭和末期の昭和61年、3年後「平成」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治日本のスキー指導者レルヒ、雪の富士登山・『岩越紀行』 | トップページ | 戦後40年は昭和末期の昭和61年、3年後「平成」 »