明治日本のスキー指導者レルヒ、雪の富士登山・『岩越紀行』
<けやきのブログⅡ>2026年1月末、記事数900。
数多いと題材選びに手間取る。思いつくものは殆ど取り上げ済みな事が多くなり次どうしよう? 悩みつつ手元のファイルを開くと、コピーが一枚。みると漢詩『明治名家詩撰』中の『明治の一郎』こと山東直砥の漢詩が七首ある。
その中の<新聞紙>は漢詩の素養がなくても判るばかりでなく、明治期に英語辞書を出版した山東らしく新鮮で面白い。
新聞紙
街談巷説筆頭収 街談 巷説 筆頭収まる
日々傳新到処周 日々 新を傳う 到処の周り
褒善貶悪無仮借 善を褒め悪を貶り 仮借無く
人間幾部小新聞 人間 幾部 小新聞
さて、年が明けたと思ったらもう二月、ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが始まる。
<日本人初の冬季メダリスト 猪谷千春さん(94)>ブラックキャット「黒猫」五輪に懸けた半生>(2026.1.21毎日新聞)
この記事でスキーを楽しんだ昔を思い出した。
スキーの経験は数えるほどだが、パート先で若い人に誘われ娘のウエアーを借りて出かけたことがある。その日、二人乗りリフトで軟派された。その晩、宿でこの話をするとみんな大笑い、そんな事もあった。
さて本題。
日本にスキーを紹介したのはオーストリアのテオドール・エドラー・フォン・レルヒという。
まずは、『明治日本発掘』からレルヒの記事を引用。
○ オーストリアのレルヒ少佐が高田聯隊を指導
雪中行軍用具のスキーに対しては、高田聯隊を始め村松聯隊などにおいても熱心研究中なるが、右につき軍事見学として目下滞在中の墺国(オーストリア)参謀少佐テオトルホン・レルヒ氏は、自国において充分これを研究せることとて、十二日午後1時より歩兵第五十八聯隊集会所において約二時間余に渉り、詳細に右に関する講話ありたるが、高田における同研究委員長堀内大佐以下も同氏の講話にて多大の参考となりしが、なおレルヒ氏はスキーに対し自らこれを穿(うが)ち、実地指導する処ありたり。・・・・・・(明治44.1.14新潟新聞)。
近年、外国人の無謀な富士登山が話題になっているが、明治の昔から登っていたようだ。
次は明治末、スキー指導者レルヒの富士登頂記録である。
○ スキーで富士山登頂
先般来再三富士登山を企て失敗したる墺(オーストリア)・洪(ハンガリー)国陸軍参謀少佐テオドル・エドンフ・フォン・レルヒ(五十七)及びクラッセル氏(二十七)両氏は、ついに十六日午後二時半、無事山頂に到着せり。(中略)
九時四十分、五合に到着したるが(五合目まで雪崩と強風のためスキーを使えず)、これより山頂に至る一物の目を遮る物なく、・・・・・・一面ただ皚皚(がいがい)としてただ目に入る物は雪あるのみ。一行は勇を鼓して強力を先導として一直線に突進し、両氏はスキーにうち乗り手巧みに右に左に登りいきたるが、十二時七合目に、一時二十八分八合目に、つひに絶頂に達したる頃には徒歩の強力もついに両氏に遅るる事数丁に及びたりといえり。・・・・・・(明治44.4.19東京朝日)。
○ 初のスキー競技会 ・・・・・・ (明治45.1.23 新潟新聞)
○ 越信スキー倶楽部創設 ・・・・・・ (明治45.211 新潟新聞)
○ レルヒの指導で蝦夷富士を滑降 ・・・・・・(明治45.4.16 東京朝日)
『岩 越 紀 行』
レルヒ君写景 ・ 蜻洲君執筆
『岩越紀行』この本は国会図書館デジタルコレクションで読め、明治の兄弟』筆者としてもことさら興味深い。ついては、内容(目次・書き出し)をご紹介。
フォン・レルヒ写景/広本賢斎著/小林二郎編/精華堂
内容。
香風楼の一夕・「止まれ」・愛宕の新公園・雄弁御嬶・高石村と御嬶・余吾将軍の墓・白崎の奇景・御前が淵・小鼻地の仙洞・小鼻地の洞門・津川の宿・杉と藤・岩越の国境・鳥井峠と「猿袴」の女・若松の一夜・磐梯山に登る・磐梯山の頂・上の湯・磐梯山噴煙の景・噴火の神・磐梯山の破裂・戸の口・戸の口旅館と「松ヶ枝」の佳人・猪苗代湖・長浜の絶景・長浜より磐梯山を望む・東山の第一夜・白虎隊の墳墓・白虎隊自陣の図・白虎隊の最後・残花一輪・若松市・若松城・戦後の鶴ヶ城天守閣・戊辰の戦・先づ根を除くに在り・若松城略史・娘子軍・その一・鶴ヶ城追手門櫓址・娘子軍・その二・東山の第二夜・東山温泉「向ひ滝」・良き家づと・鞭声粛々・阿賀野川を下る・狐戻城址麒麟山・小鼻池の奇景・阿賀川の下り舟・ローレライ・小松の逆帆・硬語盤空・馬下橋と著者・馬下停車場・「まだ顔を洗はないの」
香風楼の一夕
越路の奥の、ここは村松、雲村と云ふ旅館の裏座敷に余は今一外国紳士と共に痩躯を横へて居る.・・・・・・
外国紳士とは誰あらう、目下高田十三師団に見学中の武官で、スキー奨励者として其の名の高い、墺国参謀少佐レルヒ君その人である。レルヒ君は昨日新潟を訪問して知事閣下に敬意を払ひ、帰途、村松、津川を経て、会津路深く旅行すべく、わざわざ此の地を過(よ)ぎったのである。余は即ち*八咫烏(やたがらす)と云ふ格だ。
・・・・・・軍人の会合とて大方は無邪気淡泊の中にも、レルヒ少佐は円熟の社交ぶりで、流暢なドイツ語、硬ばった英語、怪しい日本語、万国使い分けで満座を笑わせて居る。・・・・・・ (中略)・・・・・・
翌くれば二十五日、一碧拭うが如き晴天だ。少佐はここに厳めしい軍曹を脱ぎ棄てて、背広服と登山靴というテョクな風に変り、余は脚絆、鞋の行脚姿に身を窶(やつ)し、一名の荷担人夫を雇ひ、御前七時、雲村の宿を発足した。・・・・・・(以下、興味あれば目次参照、国会図書館デジタルコレクションからどうぞ)
八咫烏(やたがらす):記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大鳥
参考: ニュースで追う『明治日本発掘』1995河出書房新社 / 国会図書館デジタルコレクション
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