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2026年3月 2日 (月)

柴五郎中尉作図の「信州雲場ケ原」

 ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが終りました。
 りくりゅうのペア・フィギュアを始めスキー、スケート、モーグルなどなど冬スポ-ツをテレビ桟敷で堪能した! 
 そういえば、初めてスケート靴を履いたときリンクに入るのも大変だったのに、若いときは怖い物知らず。それから間もなく、友人たちと夜行バスで浅間山麓・軽井沢の天然スケート場へ行った。案の定よく転んだが、笑えば痛みは飛んでった。

 さて、先ごろ地図講座「足立」を受講した。
 なにしろ自分は地図は見るのも億劫、数学の幾何と同じでまったく頭に入らないが、縁ある若者が足立区役所に就職した。
 また足立区立図書館に拙著『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』があり、何がなし縁を感じ受講してみた。

 ちなみに、足立区立図書館には『史談会速記録』(全46巻)がある。
 筆者は「明治の兄弟」を執筆中、地元の図書館を通して『史談会速記録』を何冊か借りて読んだ。
 この速記録、幕末明治を生きた抜いた武士たちの実歴談、戊辰戦争の敵味方の思い出話等など、どの話も誰の話も興味が尽きない。
 
 さて近くの図書館で地図に関わる本を借りた。そのなかに大著『増補・明治期迅速即図の基礎的研究』があり、自分には難しいが、地図好きには為になりそう。そんなことを思いながら、ページを繰っていたら、巻末に柴五郎が登場!
 すっかり嬉しくなり、柴五郎作図の長野県軽井沢、信州雲場ケ原に惹きつけられた。

 まずは、その『増補・明治期迅速即図の基礎的研究』から表題の記事、次いで、往事の信州雲場ケ原を探すと次があった。
 併せて柴五郎の略歴を掲載してみたが、日本の近代が垣間見える。

     柴五郎中尉作図「信州雲場ケ原
   
   ---JR軽井沢駅前(新軽)と旧軽とを結ぶ、広い一本道の歩道の並木下には蓮の葉を小ぶりにした葉に・・・・・・ナスタチュームのプランターが続く・・・・・・その道に、「りんどう文庫」という古書店・・・・・・近ごろその名で「補充改正復刻平成15年8月」とある、加筆された2面の迅速即図が軽井沢にあることを、知人に教えられ・・・・・・
 その図は、官設線が直江津から軽井沢に達した半年ほどの、明治22(1889)年6月とあり、東西方向に伸びる路線を境に、多少重複かつズレて南北で接続する2図からなる。 その北側を「信州雲場ケ原」、南側を「信州軽井沢ケ原」と名付け、国境の小平地牧場耕地あるいは植林地に開発されはじめた折の図である。
   ・・・・・・(中略)・・・・・・
 図作成の目的は名なんであっただろうか。図郭外左下に脇付けされた将校名が、さらに興味をそそる。「砲兵中尉 柴五郎」・・・・・・この方は、会津出身で陸軍大将に補された、北清事変(1900)のときの北京での活躍で、乃木、東郷以前にその名が世界に知られた軍人であった。
 しかも、まだ正式地形図測量以前に、(軽井沢付近5万分の1図は大正元(1912)年則)迅速則図を早い時期に作成していたとは、これまで触れられていないだけに、オドロキである。・・・・・・(『増補・明治期迅速即図の基礎的研究』)。

 次は大正期の軽井沢、北信毎日新聞より。

    信州雲場ケ原

   雲場ケ原: 町の西方郊外に一歩を移せば即ち広漠たる野景が展開する。その荒涼たる草原を雲場ヶ原と称えてゐる。
   釜の橋:  雲場ケ原の南方、落葉松の密林を潜れば、突如として潺潺たる漫川の流れに会する。茲に小橋を架して釜の橋といふ。 橋本の川底に並ぶ数個の奇石はその形状恰も竃の如く、水流それに入つて相噛み相激して渦を巻いてゐる。付近亦景勝に富む。・・・・・・
   和見峠:  新軽井沢の南方約二里。眺望の美しいところである。
   屏風岩: 和見峠を越えると和見村へ出る。そこから岐れて東方約一里恩賀村へ入ってから十丁程で達する。数多の大岸壁が屏風の如く峭立してゐる光景は実に奇観である。

    室生犀星小説集『戦死』より

   ---「あれが浅間山!」
   雲場ケ原のお池でしばらく休む。水は澄み透って鱒の子の泳いでゐるのが見えます。魚といふものは神秘的に見ると、まったく神秘的なものに見えます。 ・・・・・・川蕗の強い葉の間から谿川であるよりも、むしろ、小川といつた方がいいくらゐの静かな水が川幅一杯に流れて、音もなく青硝子をとかしたやうにゆったり雲場ケ原のお池の方に向いて流れて行きます。・・・・・・

 

   参考: 『増補・明治期迅速即図の基礎的研究』井口悦雄2013富士リプロ / 『軽井沢を中心として』奥川夢郎1924北信毎日新聞 /  小説集『戦死』室生犀星1940小山書店 / 増補版『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四郎・柴五郎』索引付2018文芸社

 

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   柴五郎 略年譜

 1839天保10年、会津藩士・二八〇石・柴佐多蔵の家に長男・柴太一郎生れる。
 1852嘉永5年、安房富津の会津陣屋にて四男・柴四郎、のちの東海散士生れる。
 1859安政6年、若松城下で五男、柴五郎生れる。
 1868慶応4年/明治元年、太一郎、鳥羽伏見の戦いに出陣。
   戊辰戦争:長男・太一郎、三男・五三郎ついで少年、四朗も出陣。次男・謙介は日光・宇都宮方面で戦死。なお祖母・母・姉・妹たち五人、会津城下に政府軍が攻め寄せてくると自害。柴家の悲劇は会津のそここで起きた。
 1870明治3年、会津藩士は下北半島斗南(となみ)に移住、飢えと闘う。
 1871明治4年、青森県庁の給仕となり、やがて上京。
 1873明治6年、陸軍幼年学校入学。
 1877明治10年、陸軍士官学校入学。この年、西南戦争おこる。
 1882明治15年、太一郎、内務省警保局出仕、新潟県高田へ。
         柴四朗、アメリカ・ハーバード、次いでペンシルバニア大学に留学。
 1884明治17年、五郎、参謀本部出仕・砲兵中尉・清国差遣(~1887明治20年)。
 1889明治22年、五郎、近衛砲兵聯隊中隊長。
 1892明治25年、参謀本部第二局員。
 1893明治26年、五郎、川上操六参謀次長の清国視察に随行。
 1894明治27年、日清戦争。
          英国公使館つき心得。翌年、台湾に派遣される。
 1898明治31年、米西戦争観戦。砲兵中佐。
 1900明治33年、清国・義和団事変で北京籠城。
         その節の活躍で日本内外に名を知られ、外国からも勲章を授けられる。
 1902明治35年、砲兵大佐。
         小松宮に随行、ヨーロッパへ。
 1904明治37年、日露戦争。
         野戦砲兵第15聯隊隊長として出征。
 1906明治39年、英国大使館付。
 1907明治40年、陸軍少将。
         イギリス赤十字万国会議に出席。
 1911明治44年、辛亥革命の上海・南京へ。
 1913大正2年、陸軍中将・下関要塞司令官。
 1914大正3年、第12師団長、小倉へ赴任。
 1918大正7年、東京衛戌総督。
         依仁親王に随行、英国へ。
 1919大正8年、陸軍大将・台湾軍司令官。
 1930昭和5年、退役。
 1945昭和20年12月13日、死去。享年87。

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