旅行・地域

2012年3月18日 (日)

青森-大阪・ブルートレイン15時間

Photo  “ブルトレ「日本海」最後の勇姿に殺到(毎日2012.3.17)” ラストランの前日、新幹線で青森へ行った。サヨナラツアーで、寝台特急「日本海」乗車、写真は車掌さんにもらった乗車証明。
 雪の青森から琵琶湖を過ぎて春めいた大阪まで寐たり起きたり、1000km乗り通した。
 車内はもちろん駅や積雪の沿線にも大小カメラ、老若男女の鉄道ファン鉄男鉄子さんだ。鉄道ファンでない私たちおばさん姉妹、その熱心さに感心するばかり。

 寝台車に乗るのは大昔に中学時代からのペンフレンドを訪ねるため、成人式の着物いらないからとお金を貰い、ついでに九州一周して以来だ。今はもう無い3段の寝台の一番上、狭い上に天井に頭をぶつけたのが忘れられない。今や毛布に浴衣の用意まである。春休みらしい高校男子の浴衣姿、可愛らしかった。

 寝台車の歴史『近代日本総合年表』(岩波書店)でみると、社会欄に3件。

 1900明治33年4月、山陽鉄道。1等寝台車の使用開始。10月、東海道線でも使用。
  この年2月、田中正造、足尾鉱毒につき衆議院で質問演説。8月(清国・義和団戦争)日本軍各国連合軍と共に北京城内に進入、公使館区域を救援。

 1903年明治36年2月、山陽鉄道で初めて椅子式簡易3等寝台車(無料)を使用。官設鉄道3等定期券を発売(従来1・2等、学生3等のみ)。
 この年4月、桂首相・小村外相・伊藤博文・山県有朋ら、京都に会合、対露策を協議(翌年、日露戦争)。

 1944昭和19年4月、国鉄1等車・寝台車・食堂車を全敗、急行列車削減。
 この年6月、マリアナ沖海戦(日本海軍空母・航空機の大半を失う)。7月、東条内閣総辞職。

 たった3つの寝台車がらみの事項、3つとも政治欄には戦争が載る。とくに1944年に至っては戦局悪化、神風特攻隊・B29の東京空襲。酷い状況なのに、戦争は翌年に原爆投下されるまで続いた。
 鉄子ならぬ歴子/歴婆のせいか、ブルートレインから話がそれた。でも戦争となれば、鉄道は兵士を運ぶから鉄路と戦争は無関係でもない。それにしても、東日本大震災は戦争に劣らないほどの恐ろしい被害を東北や関東にまでもたらした。東北の方たちが楽しい旅に出る日が早いように願う。    

2011年4月30日 (土)

白河の関(福島県)から北は

 山口県に観光旅行、高杉晋作の生家をみて思っていたより立派だと思い、松下村塾を見、ここから近代日本をひっぱった志士たちが輩出したのかと感心した。伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)、井上馨品川弥二郎らの写真が展示してある場所では、本州のこんな西の方から遠く京や江戸に駆け上がったのかと、改めて国を思う志の強さが感じられた。

 ところが頭と気持ちは別、品川弥二郎を指して「この人明治期、すごい選挙違反を指揮したのよね」と言ってしまった。展示ガイドさんが嫌な顔をした。つい反発したくなったのだが大人げなかった。
 意識したことはなかったが自分は佐幕派らしい。でも、そうかといって関東・東北に詳しい訳ではない。東北諸藩だって佐幕派ばかりではなく、一つではない東北なのだ。「白河以北一山百文」なんて一括りにしてはいけないんだ。
 原敬「一山」を号にした。自虐的に使うのでなく発憤材料にした東北人も多いと思う。

    能因法師:都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関

 東北の中でも南と北の違いがあり、太平洋側と日本海側ではうんと違うのが本当だろう。ただし、大災害のあと東北新幹線が東京から仙台まで全線が再開され、いまは東北、ひいては日本の心は一つ。

2010年12月 5日 (日)

道の駅みさわ斗南藩記念観光村【先人記念館】

2006    2010.12.4東北新幹線が全線開通、東京から“3時間20分新青森”に到着!
 テレビも新聞も青森をとりあげている。それらを見るにつけ6年前の夏、その方面へ出かけたのが思い出される。
 「明治の兄弟」を纏めるにあたって史資料に頼るだけでなく、柴兄弟を身近に感じたくあちこち出かけた。青森県へは2泊3日の旅で浅虫温泉に泊まって良かった。細かいことはすっかり忘れてしまったが、斗南藩史跡、野辺地、広澤牧場(先人記念館)など訪ねた。
 新幹線は八戸まで、乗り換え迄1時間あり駅の外へでたら図書館の分館があった。さっそく資料探し、現地ならではの資料をコピーした覚えはあるが、何だったか思い出せない。

 この旅で印象的だったのは、1872年(明治5)元会津藩士・広澤安任が開いた我が国初の民間洋式牧場、現先人記念館までのバスだった。
 途中の三沢空港、青森県立三沢航空科学館までは乗客がいたが、その先から終点の記念館まで私たち夫婦のみで1時間以上走り続けた。やっと着いた記念館は休館、仕方なくとんぼ返り。以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から。

    北辺の洋式牧場

 広澤安任は、幕末の京で活躍し交際が広く政府内にも知己があり、進取の気性に富んだ人物であった。斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東、谷地頭に酪農主義農場の開拓をはじめたのである。

 そしてイギリス人技師ルセーマキノンの二人を雇い、彼らの指導のもと農具などをイギリスから輸入することにした。その二人を通訳兼案内人として連れてきたのが柴四朗東海散士)である。“陸路を二十日余りで青森”三沢の牧場に着いた。
 開墾村牧場は現在「斗南藩観光村」になってい、JR三沢駅からバスで1時間以上走った所にあって、当時の建物も再現されているが小さい。

 技師の一人マキノンはスコットランド出身、農学校で畜産学を修めた勤勉な農夫であった。その御雇い外国人二人が狭い住居で、下北の冬に耐えて働いたのかと感心すると共に、粗末な小屋に開墾の厳しさ、困難が思われた。
 それにしても、バスが町中を抜けると道は何処までもまっすぐで人家は見あたらず、まるで原野を行くようだった。視界が開けていいが冬は吹きさらしで寒さは厳しいだろう。夏のやませといい、農耕に厳しい環境のようだ。
 明治初年は未だ交通が不便で大変だったろう。ここまで徒歩で来るのは容易でない。ましてこの地に骨を埋めるにはよほどの覚悟がいったはずである。

 ところで、当時の四朗はまだ通訳としては英語が十分でなかったようであり、勉学の志も強くまもなく牧場を離れた。家にもどって開墾の手伝いをしていたが、しばらくして箱館に渡った。あちこち放浪して就学の道を求めたが見つからず、次に弘前に出て東奥義塾に入った。

 ついでながら、この広沢牧場「開牧社」に弘前から東奥義塾を再興した本多庸一メソジスト派宣教師ジョン・イングがしばしば訪れて集会を開いた。明治初年はまだキリスト教が公認されていず、宣教師たちは公式に布教活動ができなかった。
 そこで英語塾を開いたり、学校教師となったりして若者をひきつけた。原敬なども学資に困ってフランス人の神学校に入ったり、新潟でエブラル神父学僕となりフランス語を学んだりした。
 当時、東奥義塾が外国人教師を招聘して教育しているのはかなり知られていた。斗南藩、旧会津藩の人々の中にも評判を聞いて学びに行く者があったから四朗もそのようだ。東奥義塾に入った四朗は学資がないので塾の雑用をしながら学んだ。

2010年10月28日 (木)

バリ島の米は五期作

 バリ島でウブド観光をした。ガイドは何かにつけて「任せなさい」を連発するバリ人のおじさん。ヌサドウエリアを出発して間もなく青々として実りが近そうな田んぼがあった。広がる田園は「懐かしい日本の風景」のようで、とてもインドネシアとは思えない。
 ガイドさんが言うには、バリではお米が5回も獲れるという。気温が高いからありそうとは思うけど・・・暫く車を走らせていると水田が見えた。大勢で田植えをしている。また暫く行くと、今度は稲刈りをしていた。これも人手がたくさん賑やかだ。2時間も走らないのに田植えから稲刈りまで見られるなんて、所変わればだ。
 地区ごとに順番に水を回したりして作っているという。稲刈りや田植えの写真を撮りそこなって残念だった。五期作といっても良質の米や餅米は二期作だという。

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 バリの米作りに驚いたが、バイクにも「えーッ」だった。車とバイクとどっちが多い?というぐらい何台ものバイクが車に伍して走っている。しかも二人乗りは当たり前、3人乗りを見つけて「ほら見て」と言ったら「4人乗りがいるよ」という。
 家族4人乗りバイクが、車の間をぬって走っているのだ。バイクは結構スピードをだしていて怖いぐらいだ。感心にもヘルメットだけは被っている。

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 インド洋に望む高さ70mの断崖絶壁に建つウルワツ寺院、王宮、その他を見学して戻り道、ガイドさんに銀細工の工房に連れて行かれた。父親を手伝っているという中学生の女の子がいろいろ勧める。「東京へも行くがそのときはもっと高いです」だって。鈴が入ったストラップを買った。

 次は大きなお土産屋さんにも連れて行かれた。道理で途中にマーケットがあっても立ち止まらなかった訳だ。日本で安いツアーだとあちこち連れて行かれるが同じよう。ついついあれこれ買った。
 支払いはやたらの場所でカードを使いたくないのでインドネシアルピアをだしたが、足りない。そこで以前の海外旅行で残ったドルを持ってたので出した。が、まだ少し足りなくて今度は日本の千円札を一枚足した。高額でもないのに三ヶ国のお金で買った。

 インドネシアルピアと言えば、クラブ・メッドリゾートに泊まったのだが、チェックアウトで精算のとき日本円でOKだった。ただし、おつりはルピア、日本円では出せないと言われルピアでもらい、ホテル内で買い物をした。
 入国の時は一人25USドル払った。日本円やドルで支払いができるのは便利だけど、インドネシアにとってどうなんだろう。

2010年10月13日 (水)

三浦襄、インドネシア独立のために

 昨日、インドネシア・バリ島から帰ってきた。 [ アディダス契約アドバイザー 中野ジェームズ修一と行く“スポーツキャンプinバリ島”6日間コース]
バランスボール教室の縁で参加した。 ツアー名からスポーツウーマン?と誤解されそうですが、頑張ってないので大丈夫。帰国翌日のバランスボール教室、夫婦とも出席した。

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 海外だからせめてバリの歴史をちょっとでもと、ガイドブックを手にした。バリがオランダの植民地だったと知っていたけど、日本がバリ島を過酷に支配したのは知らなかった。まして三浦襄というすばらしい日本人がいて、バリ人に慕われていたことも。 手元の人名辞典に見当たらないが、いつか三浦襄を調べてみたい。

 写真はバリの町を走るバイクを車の中から写した。バイクが縦横に町を走り、3人乗りも珍しくない。 次は「地球の歩き方から引用。

   太平洋戦争独立闘争

 太平洋戦争がはじまり、旧日本軍は蘭印(オランダ領インド)侵攻作戦の一環として1942(昭和17)2月にサヌールに上陸し、バリ島を支配下においた。日本の支配はオランダの支配より過酷なものだった。

 ただし、日本人の中にはバリ社会の向上やインドネシア独立のために尽力した三浦襄のような人物もいた。彼は民政官として調整に奔走したが、バリ島民に占領下の無理強いを謝罪し、日本敗戦後に自殺している(彼の葬儀には1万人ものバリ人が集まったという)。

2010年6月28日 (月)

津軽海峡/青函トンネル記念館

Photo_13  「松前・江差の歴史を訪ねて」というツアーに参加。新幹線で東京を出発、津軽海峡の海底を通って北海道・木古内駅に到着しました。そこから遠くない福島町青函トンネル記念館があり“新幹線、海を超える!”感動を展示しています。

 中に入ると日本初のトンネルボーリングマシーンの実物がどーんと展示され、見る物を圧倒します。映像に加えて、説明をするボランティアさんが実際にトンネルを掘った方なので話に実が入っていて、とてもいいです。
 技術や機械のことはよく判らないですが、技術畑の夫はかなり興味深い様子で真剣に聞き入っていました。工事中のトンネル内の温度は40度にもなった、大きな事故もあったなど聞くにつけ作業の大変さが察せられました。
 行って良かった「青函トンネル記念館」、折がありましたらどうぞ。日本人はすごいと思えるのでは。
 青函トンネルが最新なら、次は戊辰戦争に敗れた会津藩士が下北半島に移住するとき柴兄弟が渡った津軽海峡です。

                

 下北半島へは海路と陸路を何組にも分かれて移住した。陸路を行った者は粥をすすり、空腹をかかえ、途中雨や雹(ひょう)にたたかれても着替もないありさまで、死亡した者も多かった。
 海路をとった1800人余りはアメリカ蒸気船に乗って新潟から日本海回りで下北半島に向かい1870(明治3)年6月10日、大平浦に上陸した。今そこには「斗南藩上陸の地」の記念碑が建てられ、会津若松の方を望んで設置されている。小帆船で船酔に苦しむ苦難の旅であった。

 柴家太一郎五郎の兄弟二人が海路をとり、父佐多蔵はいったん会津に帰り自刃した家族の墓参を済ませて、陸路を北上することにした。五三郎四朗は将来にそなえて勉学するため東京に残留した。
 太一郎と五郎は品川沖から800トンのアメリカ蒸気船に乗った。船は下北半島を迂回して津軽海峡を通り陸奥湾深く、野辺地港に到着した。その進みはゆっくりゆっくりで、船酔に苦しむ五郎には辛く長い航海だった。

 柴兄弟は野辺地に2ヶ月とどまって斗南藩田名部に向かうが途中、横浜村に一泊した。この下北半島の横浜はいま菜の花の町として知られる。当時は海浜の波打際に野菊が咲き乱れ、見渡す限りハマナスが赤い実をつけていた。その光景は五郎少年のいっときの慰めとなった。
  (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』斗南藩より)

2009年11月 8日 (日)

旅先でキクラゲ買ったら中国産

Photo_24  東北方面に旅行に行ったとき、地元の産物が売っているショッピングセンターでキクラゲを買った。当然地元の木耳と思って確かめもしなかった。暫くして 、さて使いましょうと袋をよく見たら「中国産」と印刷されていた。
<写真はそのキクラゲ入り野菜炒め>

 近ごろはスーパーでも中国産のしか置いてないところがあるので、棚に並んだキクラゲをみて好かったと思って買ったのに。
 中国産だから悪いという訳ではないけど、地元の産物と思って買ったのでがっかりした。

 ところで、自分のなかで「中国」というと三つのイメージが同居している。
 * 万里の長城など古い古い歴史と杜甫や李白の漢詩の世界
 
* 西太后、日清日露、先の大戦といった近い歴史の中国
 
 今現在ニュースで見る中国

 キクラゲ一袋からで何だけど中国の長い歴史と文化をふりかえる時、中国産に善いイメージが定着していないのを残念に思う。

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