映画・テレビ

2010年12月18日 (土)

日韓の映画史から見える時代

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 2010年秋、“中野ジェームス修一と行くスポーツキャンプinバリ島”若い人に交じり参加した。一行は水中、陸上の様々なスポーツを楽しんだが、私たち夫婦は観光目当てだ。ちなみに中野氏はテニス伊達公子選手ほか有名選手トレーナー。海外のリゾートでスポーツを楽しむ世代に交じると、映画が娯楽だった昭和と隔世の感がある。
平成の今、テレビやDVD、雲の上でも映画が楽しめる。ガルーダインドネシア航空ジャッキー・チェンベスト・キッド」を見た。英語も中国語もさっぱりだが、ストーリーは単純で楽しめた。

     映画とことば
 英語と中国語がとびかう映画を見たが、一口に中国語と言っても北京語、広東語など地方ごとに発音や語彙が異なる。佐藤忠男映画の真実』(中公新書)によると、中国では映画のトーキー化が始まったとき、国民党政府はすべての映画は標準語としての北京語でセリフを話さなければならないと決めたという。国民党政府は映画のセリフで標準語の普及を図ったのである。
  また台湾の場合、日本の植民地時代は日本映画と北京語による中国映画は見ることが出来たが、地元の台湾語による映画はなかった。日本の統治を離れてはじめて台湾語で映画を作る自由を得たのである。

 さて、映画が写しているのは何?現実それとも絵空事?現代劇といえども現実そのものでなく、美化したものも多いだろう。時代劇でも制作時の社会の風に吹かれ、時流や思考、当代の現実らしきものが画面のどこかに見え隠れしていそう。
 映画に限らず表現は自由になっているが無制限ではないから、時には問題が起こる。でも現代は「制限された事物」を社会に訴え、議論もできる。しかし、戦前の日本や前述の中国、植民地の韓国や台湾だとそうはいかない。そもそも映画作りのはじめから強い縛りがあり、完成しても検閲を通らなければ観客の目にふれない。

      日本と韓国の映画史
 映画から日韓の近現代をかいま見ようと思ったのは“開化期から開花期まで『韓国映画史』”(キム・ミヒョン責任編集・キネマ旬報社)を手にしてである。この映画史で日本が植民地韓国に何をしたか、それに対し朝鮮の人々がどんな思いであったか、その一端を知った。又、興の赴くままに観る映画、作り手の志を知ればいっそう興味がわくとも感じた。
 ひるがえって日本の映画史をと『映畫五十年史』(筈見恒夫著・鱒書房)を読んだ。戦中の本で紙質は悪いが実に多くの映画を見、驚くほど映画と制作に造詣が深い著者に感服した。
 著者筈見は映画の脚本も書き、25歳で東和商事(現・東宝東和)の宣伝部長となり、ヨーロッパ映画の輸入宣伝のかたわら、評論活動を続けた。財団法人川喜多記念財団HPに淀川長治らと一緒の写真や著書の紹介あり。ちなみに同HPの資料探訪には戦前の宣伝、検閲の項がある。
 『韓国映画史』は2010年刊で新しい。朝鮮戦争と南北分断、軍事独裁政権による過酷な検閲、その先の現代まで記述がある。しかし『映画五十年史』は1942(昭和17)年刊、太平戦争までで終わり。そこでこの2冊の時代が重なる1942年頃までを見てみる。

     映画の始まり
 日本に映画が来たのは1896(明治29)年で映像はアメリカ市街の風景、火災消防などであった。大阪南の演舞場で活動写真を公開の時、警察の許可が下りず、交渉の末やっと興行の許可がおりた。浅草では大火後のバラックで活動写真を興行した。
 活動写真が全盛のころフィルムの提供は全国でわずか三人、その一人が孫文との交流で知られる梅屋庄吉であった。動く写真、欧米の風俗は当時、日清戦争の大勝利によって、一流国民の圏内に近付こうとする日本国民の心を捉えた。
  天然色活動大写真顕微鏡映画「蛙の血液循環」「腸窒扶斯菌(ちようちふすきん)」、劇映画「ナポレオン一代記」「馬鹿大将」(ドン・キホーテ)など輸入封切りされた。また映画館の誕生と共に映画説明者“弁士”いわゆる“活弁”が現れた。

 1910年、悪の英雄「ジゴマ」(フランス)に観客が殺到、子どもの遊びにジゴマごっこが現れ上映が禁止されたりした。
 当時、映画の検閲は各府県別になされ統一的でなかった。ジゴマの上映禁止は第二回目で、第一回は1908年、神田・錦輝館「仏蘭西革命ルイ十六世の末路」である。しかしこの時は「北米奇譚巌窟王」として同一映画を上映、事なきをえた。
 ルイ十六世をアメリカの山賊夫妻とし、その豪華放埒な生活も悪運尽き民衆に捕らわれ、儚い末路を遂げることにしたのである。
 “弁士という重宝なもの”がいて、どうにでも都合よく変えられた。西洋ものは一人の弁士、日本映画は鳴り物囃子入りの演出だった。
 明治期みるべき記録映画として、白瀬矗中尉の南極探検と日露戦争・旅順開城の実況がある。劇映画ははじめ歌舞伎の舞台を実写したものだったのが、尾上松之助の出現など映画が変わり、興行も軌道にのるようになった。明治末期には五つの撮影所があった。

      1910年代 日本映画
 大正時代、映画がようやく企業として成り立ち、Mパテー会社・梅屋庄吉の提唱により有力4社で「大日本フィルム機械製造株式会社」(日活)を創立した。日活は「尼港最後の日」(1920年)シベリア尼港(ニコライエフスク)でパルチザンの捕虜となった日本人将兵・居留民が虐殺された事件を映画化した。映画中の日本領事夫人には女形の衣笠禎之助が扮した。
 歌舞伎に代わって登場した新派映画だが、女形を用い現代の服装をした旧派を繰り返した。いっぽう若い知識人は手当たり次第に借り着の思想を身につける。浪漫、自然、享楽主義、そしてシェークスピアやゲーテが新しいものとして登場する。
 松竹は女優を採用。蒲田映画の傑作の一つ「山の線路番」を1923(大正12)年封切った。そこには自然主義的な人物の描写「生まれざりしならば」というような暗い絶望が見られた。同じ伊藤大輔作品「女と海賊」も従来のヒロイズムや勧善懲悪一点張りとは異なり、人間が人間であろうとして、不安と焦燥にかられて行く近代の苦悶が伺える。
 当時の日本映画について演技、演出、作劇法などは新劇派、新派的、アメリカ映画的の三つに分類される。

 第一次世界大戦によって未曾有の好景気がもたらされ、軍需工業が興り、庶民も小遣い銭の廻りがよくなった。しかし、好景気の反動で憂鬱な世相、見通しのつかぬ不安時代へと移り、やがて関東大震災に見舞われる。
 震災を背景とした劇映画が作られるが、粗製濫造の際物で出来映えは今ひとつ。だが、大震災は映画作家たちに「人生の無常、形式的なものの破壊」を感じさせたのである。
 鈴木謙作大地は揺る」は大震災で焼け出された富豪一家が、若いコックの腕一本の力強さに屈服する。日本映画として最初の階級的な対立が意識化されている。

     植民地時代(1910~1945年)の韓国映画
 韓国でも1897年ころ活動写真が入ってきたが、儒教的な閉鎖構造のため、近代化された西洋文化を受け入れる条件が整っていなかった。
 外国映画が興行を主導し1910年から外国映画全盛だった。映画は日露戦争を描いた「決河屍山」(1913年)などの実写物からフランシス・フォード監督の連続活劇「名金(金貨のかけら)」のような劇映画が好まれるようになっていた。韓国映画はまだ芽を出せずにいた。
 1923年、朝鮮総督府逓信局による貯蓄奨励用の啓蒙映画月下の誓い」(ユン・ベンナム脚本監督)は日本人の太田同の撮影と編集で完成した。
 翌年初めての純粋な韓国映画「薔花紅蓮伝(ちやんふぁほんによん)」が制作された。韓国の映画は朝鮮半島の植民地化とともに始まったので、日本の検閲を避けられなかった。
1924年「海の秘曲」悲恋物語は俳優陣を除いたスタッフ全員が日本人であった。植民地時代約150本の映画を制作、無声映画の傑作もある
1926年「アリラン」(ナ・ウンギュ監督)は当時の韓国人を衝撃と興奮で包み込んだ。植民地状態から出発した韓国映画は民族のリアリズムを直視した。
 「アリラン」は何年も持続的に全国を巡回上映され、状況、弁士の政治的傾向により幾通りものテキストがあった。
 当時、弁士はスターであり、観客は弁士の解説を楽しんだが、内容は固定されていなかった。たとえば臨席する警官がいるのと、いないのとでは、解説が違ったのである。

      検閲と国策映画
 1925年、府県別に行われていた映画検閲内務省に統一された。東京で禁止された映画が、京都では公然と上映という現象は一掃された。
 1936年日独防共協定調印。日独提携「新しき土」が日本側から監督伊丹萬作原節子早川雪舟らで制作された。
1937年、盧溝橋事件勃発、ニュース映画が激増し前線と銃後をつないだ。1939年、映画法実施で制作本数の制限、シナリオの事前検閲、情報局案の臨戦体制に添う国策映画が制作された。
「指導物語」鉄道省後援、「わが愛の記」軍事保護院後援、「八十八年めの太陽」海軍省後援、ほかに「元禄忠臣蔵」「大村益次郎」など。

 韓国映画を統制下に置いた朝鮮総督府は、朝鮮人志願兵制の宣伝のため「志願兵」や「君と僕」(松竹配給)を朝鮮軍報道部の全面的な支援で制作した。民間映画社の「新開地」(ユン・ボンチュン監督)を最後に朝鮮語の映画は禁止された。以来、韓国では植民地から解放されるまで“日本語”の映画だけが制作されたのである。
 親日派監督は、日本の映画会社から派遣された監督および技術陣と合作する中で、朝鮮人俳優とスタッフを動員し、宣伝映画を制作することもあった。
 今井正演出、チェ・インギュ補佐の「望楼の決死隊」、豊田四郎演出の「若き姿」などがそうである。ちなみに今井正は戦後の1949年「青い山脈」、翌年「また会う日まで」と恋愛を肯定した映画を制作している。
 現在の韓国映画の活気は、歴史的背景と危機、外部の脅威を創作の力に転換してきたからだという。映画の元気はその制作国の文化が元気といえそう。いま現在、日本映画の活況は如何に。

2010年11月17日 (水)

日本映画大学/『映画の真実』

   専門学校「日本映画学校」が来年4月、国内初の映画単科大学として川崎市に誕生、初代学長に佐藤忠男さんが就くという。(毎日新聞“ひと”2010.11.17)。

 映画は子どものころから好きだった。東映の新諸国物語「笛吹童子」や「ゴジラ」などを見た。やがて洋画を見るようになって、アラン・ドロンアンソニー・パーキンスにうっとり。リバイバルで、ジェラール・フイリップをみて素敵だと思った。
 結婚して子育てが終わると、盆暮に夫婦で寅さん映画を楽しみ、時には友人と岩波ホールで洋画「八月の鯨」をみたりした。それらやジェームス・ディーン理由無き反抗」等、だいぶ昔だが忘れられない。
 今もたまには夫婦で映画館に足を運ぶが、テレビでも見る。ついこの間見たような気がする「チェンジリング」を映画チャンネルで放映していて、はやいなと思った。

 テレビやDVDで再度みると、映画館では見逃していたことに気づいたりするから、これはこれでいい。でも、やっぱり映画は映画館で見た方が記憶に残るような気がする。
 『映画の真実』(佐藤忠男・中公新書)を読んでなおそう思った。著者は
「映画は森羅万象を扱うから人間や社会に無関心な人には向かない」というが同感である。

 それにしても映画は何を映しているだろう。何事も美化して描いているかも知れない。
「たとえばアジア映画を観て、アジアの現実がわかるだろうか。映画に描かれた世界は美化されているのでわからないと批判するのは簡単だ。しかし美化された理想に共感しながら見るのも楽しみ方の一つだ」
 『映画の真実』はこのように、文化の多様性を表す映画を語りながら、日本内外の映画入門として読者をひきつける。さて、どこの映画館へ行って何を見ようか。

2010年9月23日 (木)

『映畫五十年史』筈見恒夫 昭和17年発行

50  先に『韓国映画史』で日韓の辛い時代を垣間見た。暗い歴史をのみ込んだ上で韓流ブームに触れるとホッとする。今はブームと言うより韓流というジャンルが定着したようだ。それで日本は?と振り返ってみたが何も知らない。そんな折しも古本カタログに映画史があったので取り寄せた。

 『映畫五十年史』は戦中の発行らしく、巻頭は情報局国民映画受賞作品【将軍と参謀と兵】(日活)、次ページも同受賞作品で【父ありき】(松竹)の写真が載る。最終章は「大東亜映画への構想」で下記引用のように勇ましい。このように書かなければ刊行できなかったのだろう。
 現在使わない言葉は資料として原文のまま。外国名は殆どカタカタだが10章はドイツを“独逸”と表記、枢軸国としてかな。

 ・・・・・・われわれの傑れた映画意志を、われわれの激しい映画闘志を、われわれの鍛えた映画技術を、支那大陸に、満洲国に、南洋諸国に持ち込んで行かうではないか。すべてのアジア民族が一つになつて、大東亜映画なる実態を持たうではないか(後略)。

 巻頭巻末とも戦時色だが、中身は検閲の時局とは無縁のような映画評論、映画史で興味深い。映画の始まり、映画関係者の情熱、俳優のエピソードや演技のこと。輸入業者や制作サイドにも詳しく、また欧米の映画にもよく通じている。経歴をみれば納得であるが、それにしても博覧強記だ。本当に映画を愛しているのが分かり、DVDで楽しむのもいいけど、たまには映画館へ行こうと思った。
 写真もかなり掲載されている。洋の東西を問わず映画のワンシーンはもちろん女優の写真も数々あり、映画の雰囲気を伝えている。きっと、この『映画五十年史』は復刻されて読み継がれていることだろう。
 本書は中身がありすぎ、これはと思うところに付箋を貼ったら付箋だらけになってしまった。これじゃ丸写しになりそうで項目を抜粋してみた。西暦は筆者。

『映畫五十年史』鱒書房

第1章 明治年代の映画(明治29年――45年1896~1912)
        エジソン/活弁の元祖/北清事変の従軍撮影/検閲受難/南極探検映画etc
第2章 映画事業の企業化(大正元年――4年0912~1915)
       日活の創立/新派劇『復活』『不如帰』の当り/尾上松之助etc
第3章 大戦と欧米映画(大正元年――9年1902~1920)
       アメリカ・イタリイ・フランス・ドイツ・ロシア映画/大戦中のヨーロッパ映画展望
第4章 改革運動の台頭(大正3年――10年1914~1921)
       新派悲劇の全盛期/松竹キネマの初期/新劇運動と映画館etc
第5章 蒲田映画と向島映画(大正9年――12年1920~1923)
      「枯れすすき」の小唄/映画女優の台頭/鈴木謙作のリアリズムetc
第6章 映画劇の成長期(大正12年――昭和初期1923~)
     大震災と映画/帝キネ/文芸作品の映画化/時代劇の新しい風潮etc
第7章 欧米映画の影響(大正10年――昭和3年1921~1928)
      ドイツ映画戦後の退廃と表現芸術/南欧および北欧映画/アメリカ映画の排斥etc
第8章 傾向映画前後(昭和2年――8年1927~1933)
      時代劇に現れた反抗精神「斬人斬馬剣」*写真(右上)/サイレント時代劇の末期etc
第9章 トーキーと日本映画(昭和2年――13年1927~1938)
      監督システムとプロデュウサー・システムの対立/トーキー作家の足跡
第10章 大東亜映画への構想(昭和12年――16年1923~1941)
     支那事変とニュース映画/映画法と独逸映画界/枢軸の映画国策/対米英映画への宣戦/朝鮮映画の過去と現在/臨戦体制と日本映画etc

筈見恒夫:本名・松本英一(明治41――昭和33年1908~1958)東京下町生まれ、大正の初めから映画を見続ける。
 22歳ころ南部圭之助らと『新映画』創刊。サイレント映画「もだん聖書 当世立志読本巻一」脚本。25歳東和商事(東宝東和)の宣伝部長に就任ヨーロッパ映画の宣伝に尽力。のち映画プロデューサー。42歳で東和映画(東宝東和)宣伝部長に復帰。49歳没。著書『映画と民族』『映画の伝統』ほか。
    [出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]

2010年5月 2日 (日)

ひょっこりひょうたん島/井上ひさし

 波をちゃぷちゃぷ かきわけて 雲をすいすい おいぬいて
 ひょうたん島は どこへいく 僕らをのせて どこへいく
 まるい地球の水平線に なにかがきっと まっている
 苦しいこともあるだろさ
 悲しいこともあるだろさ
 だけど ぼくらはくじけない 泣くのはいやだ わらっちゃおう
 進め ひょっこり ひょうたん島
 ひょっこり ひょうたん島   ひょっこり ひょうたん島

 ごぞんじ先頃亡くなられた井上ひさしさんのテレビ人形劇の主題歌です。二児の母となったころ夕方の楽しみでした。はじめは食事の支度をしながら耳だけで愉しんでいたのですがいつしか、ドン・ガバチョの演説に聞き惚れテレビの前に座り込んで見てました。ひょうたん島を波に浮かべてくれたのが誰かも知らず見てましたが、井上ひさしと知ってなるほど納得でした。

 トラヒゲサンデー先生博士キッド坊やにマシンガン・ダンディ・・・みんな好き,、人間語が話せるライオンや他のみんなもね。
“泣くのはいやだ 笑っちゃお”声をだして歌うと元気が出ます。
 井上作品で“笑い”を教わるまではガチガチの文学少女だった私、当時の自分と似た人がいたら友だちにならないでしょう。そんな人つまらないもの。

 井上さんは笑いをとりながら社会批判や反戦を伝えている所がすごい。思ったことをただ伝える、それだけでも難しいのに。しかも膨大な知識がありながら「むずかしいことをやさしく ふかいことをおもしろく」て魅せてくれた作家です。
 そういう天才と同じ時代の空気を吸えてラッキーでした。でも、もうちょっと長生きして欲しかった。

 主題歌はひょうたん島だいすき伊藤悟著『ひょうたん島大漂流記』(飛鳥新社)より写しました。
 伊藤さんは5年間一日も欠かさず「ひょっこりひょうたん島」を見続けたばかりか、書き取りまでしたそうで、井上さんから「伊藤さん ありがとう」と感謝されてます。「ひょうたん島」一ファンも「完全ガイドをありがとう」感謝です。

2009年10月16日 (金)

映画「麦の穂をゆらす風」と『佳人之奇遇』

 日本で有名なアイルランド人というと小泉八雲ラフカディオ・ハーンでしょうか。近ごろは日本国内でアイリッシュ・パブアイルランド特産の黒ビールや伝統音楽やダンスを楽しんでいる人もいるようです。
 この様なことを知ったのは数年前で、それまではIRA、アイルランド紛争とかニュースの中のイメージしかなかったです。それが明治の小説からアイルランドに興味をもち、この国の苦難の歴史を知りました。
 
 アイルランドはじゃがいもの大飢饉(1845~1852)で人口が160万人も減ったのです。それには700年もの間この国を支配していたイギリス政府の責任もあるといわれます。
 アイルランドで独立戦争が起きたのは日本でいえば大正時代半ばで、麦の穂をゆらす風は反イギリス独立運動の抵抗歌の題名です。

 英語でなく、アイルランド語で自分の名前を名乗った青年が英国の治安警察部隊に殺される―――アイルランド独立戦争を描いたケン・ローチ監督の映画「麦の穂をゆらす風」の冒頭シーンは衝撃的だ(毎日新聞“EU旗をゆらす風”福島良典)。

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 これより30年以上前にアイルランドの惨状に同情した明治人がいたのです。『佳人之奇遇』の著者東海散士・柴四朗です。
 散士は「佳人之奇偶」第2編で、アイルランドの農村でイギリス兵の略奪と暴行を描いています([愛蘭惨状ノ図])。
 19世紀のアジアに押し寄せるヨーロッパの強国と明治日本、その現状を見るととても他人事とは思えなかったのでしょう。
 言論取締りがあり、表現に制約がある社会なので当時はやりの政治小説の形をかりて人々に警告したのです。この編に序をつけているのは土佐の後藤象二郎です。
 ちなみに『佳人之奇遇』第2編の内容は以下のよう

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