2015年2月 7日 (土)

なりふり派手な尊攘派浪士、本間精一郎 (新潟寺泊)

 2011年3月以後、主に東日本大震災と原発事故で被災した福島・宮城・岩手の人物をとりあげていて教わることが多い。戊辰戦争に敗れたため、貧困に陥ったばかりか明治維新後の生きる道をも狭められた学者・教育者・官吏・商人、どの分野でも共通するのは苦境にあってもくじけず刻苦精励する姿だ。維新の貢献者は南西日本出身が殆どで東北人は志を抱いてても選挙や試験のない時代、出身派閥に恵まれないと表舞台に立てない。しかしそれを乗りこえ人並み以上の奮闘努力で名を成した東北人は少なくない。東北の頑張り、今は大震災からの復興に立ち向かっている。ささやかな応援の気持ちを持ち続けたい。

 ところで、いよいよ戊辰の戦となり奥羽越列藩同盟が結ばれたが、そうした列藩中に勤王の士が居り、それぞれ藩内で葛藤があった。仙台藩の岡鹿門は、江戸の昌平黌つながり幅広い人脈があり、京都・大阪に長らく滞在し時勢を見る目が養われた。もちろん情報をすべて仙台送っていたが藩論を左右するまでには至らなかった。仙台に戻って列藩同盟に反対すると罰せられた。藩の行く末を考えればこそ同様の事は他藩にもあった。
 筆者は会津人・柴五郎の伝記を書いてすっかり会津贔屓になっている。東北諸藩のなかに列藩同盟参加に反対する者がけっこういたのにがっかりした。しかし、激動する情勢を立場をこえて眺め先行きを考えると、意見や立場が割れるのは仕方がない。
 海の向こうから黒船はやって来るし動き出した時勢、じっとしていられないのは藩士だけではない。京大阪から遠い地の若者をも突き動かし駆り立てた。その中で特に目立ったのが越後(新潟県)の尊攘派浪士・本間精一郎だろう。なにしろ、美服に長刀という派手ないでたち、東奔西走して弁舌を振るい、あげくに暗殺される。奥羽越ともいうように越後は東北の一角を占めるのに、本間の気質は東北人とかけはなれて見える。どうしてそうなのか。

       本間精一郎  1834天保5~1862文久2年

 本間精一郎。名は正高・純、字は至誠・不自欺斎、仮名を名張長之助、精一郎は通称。
 新潟県三島郡寺泊で生まれる。祖先は佐渡国守護職といわれ、郷士格の身分。本間家は寺泊で酢の醸造をし京阪方面にも取引先があり、大庄屋・町役人なども勤め栄えた。
 14歳頃、昌平黌教授・佐藤一斎の門人、斉藤赤城の門で6年間学んだ。19歳のころ、北越の天地は己を容れるには小さいと思い始める。
 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航すると、本間は江戸に出て勘定奉行・川路聖謨のもとを訪れた。川路は佐渡に奉行として赴任したことがあり、ツテでもあったのか、それとも志に耳を傾けて貰えそうと思ったのだろうか。ともかく中小姓として川路聖謨に3年ほど仕えた。中小姓とは、常に側にいる寄寓書生のようなものらしい。

 1858安政5年正月、本間は堀田老中の命で京都に赴く川路の供をしたが間もなく、江戸に戻り昌平黌に入学した。
 昌平黌では学問に励むより、安積艮斎の同門の大村藩・松林飯山(長崎)や刈谷藩・松本奎堂(静岡)、水戸藩・薩摩藩の日下部伊三次(茨城・鹿児島)など広く志士たちと交わった。
 やがて、日米通商条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅ぼごのみっちょく)に関連、賴三樹三郎、日下部らと共に幕府の役人に追われ伏見に逃れた。しかし捕まって入獄、半年ほどで釈放された。この頃から、京都・江戸で尊攘派浪士が次々と捕らえられ、1858安政6年10月の安政の大獄となる。

 釈放された本間はなおも活動を続ける。大阪の双松岡(松本奎堂・岡鹿門・松林飯山の勤王塾)に出入りして事を謀り実行の相談をしたりもした。また讃岐(香川)に赴き赴子分が千人もいる日柳燕石の家に逗留して意気投合、さらに土佐にも長州にも赴、き勤王攘夷の急先鋒として花やかに活動した。しかし事は思うようにいかず志を得なかった。

 1862文久2年4月、薩摩藩の島津久光が藩兵をひきいて上京すると、本間ら尊攘派浪士は倒幕の時期至れりと張り切った。京都の長州藩邸に赴き、高杉晋作らに薩摩に続けと説いたが、島津の考えは公武合体にあり、朝廷の意を受けて浪士の軽挙妄動を戒めた。さらに浮浪を鎮撫せよとの勅命に従ったから尊攘派浪士は納得せず、倒幕挙兵を企てたため、寺田屋事件がおきた。
 寺田屋に集結した尊攘派志士と薩摩藩士が乱闘、殺害された。この騒動で、本間は個々に運動しても回天の業は遂げられないと悟り、同志の清河八郎らと情勢を窺いつつ、三条家や青蓮院の宮など公家の間に出入りし倒幕を画策した。  公家と志士の間をつなぐ役目をはたしていたようだ。

 雄藩の出身ではない本間は、自由に薩摩、長州、土佐を批判した。そのうえ、美服をまとい長刀を好み容姿颯爽として雄弁、また酒食に溺れるところがあり反感を抱く者も多かった。本間の金銭感覚は当時の軽輩の浪士らと違っていたから非難されることがあった。
 1862文久2年8月21日夜、ついに先斗町の遊郭の帰途、待ち受けていた本間の同志とも言える勤王急進派の薩摩、土佐の志士に襲撃され斃された。暗殺者らは本間の死骸を高瀬川に捨て去り、首を四条河原に梟した。享年29歳。
 本間の人物評には傑物と姦物・姦雄とがあり、評価が定まっていないようだ。

    参考
『越佐維新志士事略』 1922国弊中社弥彦神社越佐徴古館編 
『維新の史蹟』 大阪毎日新聞社京都支局1939星野書店
『北越草莽維新史』 田中惣五郎1943武蔵野書房
『明治維新運動人物考』 田中惣五郎1941東洋書館

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2015年1月31日 (土)

妻にふられたお陰で昌平黌教授、安積艮斎(福島県)

 明治人を調べていて「昌平黌(しょうへいこう)つながり」を感じる事がある。諸藩から熱意ある若者が集う昌平黌では師弟の情とともに友情も生まれただろう。ことに幕末、時代の転換期には出身藩によって立場が分かれるが未だ佐幕・尊皇一辺倒でない頃は、藩を背負わず気の合う友人同士で思うままに行動できた。
  ペリー来航時には休暇をとり、一人で或いは友人と浦賀や房総まで出向く者がいて、海外防備の重要性を改めて認識したのである。それに政治情勢が相まって昌平黌は幕府の学問所なのに、尊皇攘夷の空気が漂い、やたらに剣を振り回す者がいたり、会津の南摩綱紀のように洋学を学ぶ者もでてきた。ついには過激な方へ走る者も、その最激派が天誅(忠)組の松本奎堂である。
 奎堂と尊皇の志を同じくする昌平黌の友人に仙台藩士岡鹿門と大村藩士松林飯山がいた。この三人はのち勤王の双松岡塾を開く。飯山は安積艮斎の門人で同じ安積門の本間精一郎を奎堂に紹介したところ二人はすぐ意気投合した。同期、同門は友人をも繋ぐ。
 昌平黌寮名簿によると学生名と藩主、師(安積門・古賀門・佐藤門・林門など)がわかる。安政期をみると安積門は多い。昌平黌以外にも門人が多く、土佐藩の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)はよく知られる。昌平黌といえば林家とか古賀家のイメージ、安積艮斎はどんな学者だったのか漢学どころか漢文も読めないが、ちょっと気になり見てみた。

 
          安積艮斎(あさかごんさい)

 1791寛政3年~1860万延1年。幕末期の儒学者。
 陸奥国安積郡郡山(福島県中央部)、神官・安藤親重の子。名は重信。号は思順。

 幼くして二本松藩儒・今泉徳輔に学び「この児怖るべし」といわれるほど優秀であった。
 1807文化4年、16歳。隣村の里正(庄屋)今泉家の養子になったが、艮斎は醜男で風采があがらない上に、読書が好きで、野良仕事が手につかない。妻も舅も艮斎が気に入らない。今なら高校生夫婦、若い二人の感情は無理もない。当然おもしろくもない日を送っていると、郡山に大火があった。すると舅が艮斎に、屋根葺き用の藁を売りに行くよう命じた。
 艮斎は二匹の馬にたくさんの藁を積んで郡山へ行き、半日くらいで売りきったが儲けは僅か。艮斎は掌にのせた銭を見て嘆息、
「われ二馬と共に半日を費やして僅かに数緍(すうびん・銭を差し通したひも) を売るに過ぎず。何ぞそれ賤なるや。しかず、男子の志を成して、富貴を取らんには」そういうと、馬を町外れの林の中に繋いで飄然と江戸に上ってしまった。17歳の時である。

 養家を出奔した艮斎、なんとか千住まで来たが旅費が尽きた。途方に暮れていると、江戸本所馬場町妙源寺の住職・日明が声をかけてくれた。事情を聞いた僧の日明は艮斎を寺へ伴い、艮斎の学力を知ると佐藤一斎に紹介した。お陰で艮斎は一斎の門人となり学僕として住み込み、雑用をこなしながら勉学に励んだ。夜中に眠くなると煙草の脂を瞼に塗りつけて眠気を追い払って勉強したという苦学中の話がある。

 1810文化7年、19歳。初めて江ノ島に遊び書いた紀行文は名文と讃えられる。
 1813文化10年、昌平黌に入り林述齋に学ぶ。
 1814文化11年、神田駿河台小川町に私塾・見山楼を開く。
 朝な夕な富士山と対面というのが見山楼の由来である。塾を開いて間もない頃、町内の井戸恬斎(てんさい)と子の浩斎(こくさい)を知り、酒を飲み、史を論じ、あるいは詩を賦し、交わった。井戸父子は艮斎が赤貧洗うが如し、あまりに貧しいので大いに同情、熱心に塾を応援した。父子の口コミのお陰もあり次第に生徒が集まるようになった。艮斎はその徳を終生忘れなかった。

 1836天保7年、二本松藩の藩校の教授に招かれる。藩主の御前で、艮斎が春秋左氏伝を大河の流るるごとく滔々と講じると、満座の誰もが熱心に耳を傾けたという。博覧強記の艮斎は、諸子百家の書ことごとく読破、学識は古今東西及ばぬところがなかった。

 1850嘉永3年、60歳で師の佐藤一斎と共に昌平黌の教授に挙げられた。
 艮斎は学者が一派に拘泥して壷中の天地に縮こまっているのはよくないと、林大学守一派の学派(朱子学、当時の官学)とは別に一派をたてた。その学は、*程朱陸王漢唐老荘の諸派の粋ををとり、打して一丸とする創見(新しい考えや見解)に富んだものであった。
   *程朱陸王漢唐老荘=程朱:(程朱学)北宋の程兄弟と南宋の朱熹の唱えた儒学(朱子学)。陸王:(陸王学)宋の陸象山と明の王陽明の学説。漢:(漢書)中国の史書。唐:中国の史書・唐詩。老荘:道教のもとを開いた老子と荘子が唱えた思想・学問 

Photo

 1853嘉永6年、ペリー来航、翌年ロシアのプチャーチン来航という時勢。艮斎は国防にも関心をもち、またアヘン戦争に刺激され『海外紀略』を著した。
 詩文家として名声を得た艮斎は、松崎慊堂古賀穀堂らと親交を深め、その詩文『艮斎文略』は大いに読まれた。多数の著作を残している。
 写真:小説家・劇作家の菊池寛が『わが愛読文章』でとりあげた『艮斎閑話』の表紙。

 日頃の艮斎はぼさぼさ頭で身なりを構わず、談論を好み口角泡をとばて我を忘れ、天真爛漫なところがあった。終生人の短所を言わず、楽しみは山水の遊覧だけだったという。
 その艮斎、机近くにいつも婦人の絵を掲げていた。絵の女性はかつての妻で、妻に愛されていたら家庭におさまり今の自分がなかった。だから発憤させてくれた恩を忘れないためだという。
 1860万延元年11月21日、69歳、昌平黌官舎で没。南葛飾郡綾瀬村堀切妙源寺に葬られた。のち東京府の区画整理で寺と共に墓も移転。

    参考:
  『人物の神髄』伊藤銀月・著1909日高有倫堂)/  『先哲叢話』坂井松梁1913春畝堂/ 『成功百話』熊田葦城1926春陽堂 /  『贈位功臣言行録』河野正義1916 国民書院 / 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

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     <特別展『3.11大津波と文化財の再生』のご案内>

 “よみがえった明治の響き―――津波で損傷 修理のオルガン”
 2015.2.1毎日新聞に、オルガンを弾いている写真と上記見出しの記事があった。現存しない国内メーカー「海堡」が明治時代に作った、数台しか残っていない貴重な楽器という(3月15日まで展示)。

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2015年1月24日 (土)

馬挽きから立身した県会副議長、岩崎亀治(岩手県)

 明治、大正の人物を調べていて同時代人の人物評はありがたい。よい手がかりになる。100年以上昔の刊行物はそれなりにあって地方で埋もれた人物を知るのにいい。ただし、参考にする著作者の観察眼や評価が適当かどうか二、三冊ではわからない。でも他に見つからず紹介しながら不安な時がある。政治家の場合は著者がその人物と同じ側ならどうしたって甘くなるだろう。甘いから悪いと決めつけられないが偏り過ぎはまずい。
 まあ学者でなしただの歴史好き、あまり深刻になると何も書けないから出来る範囲でだが、次ぎの岩崎亀治については、『岩手県一百人』「世に伝ふる価値がある」をそのまま受けとりたい。その『岩手県一百人』の人物評、後藤新平・斎藤実・原敬ほか有名人はもとより無名人物に対しても辛口が多いが、貶すだけではなく誉める所はほめているし、何より岩崎亀治の元気がおもしろいから引用して紹介。

     岩崎亀治

 1848嘉永元年10月、気仙郡高田町(岩手県陸前高田市の中心地区)に生まれる。
 13歳の頃、一ノ関町にある商店の丁稚小僧になり17歳まで4年間働いた。商売のこつを覚えると、いつまで人の下にいるより独立をしようと考え、ひとまず郷里の高田に帰った。
 帰郷した亀治は独立資金をつくるため父に馬一匹を借り、翌日から馬を挽いて荷物を運んで駄賃取りをはじめた。 ちなみに子どもに与えるお駄賃は、駄馬が荷物を運んでもらう運賃からきている。

 亀治は駄賃を貯めた3両を懐に一ノ関に赴くと、草履・下駄を仕入れた。そしてこれらの品物を背負って気仙郡の海浜を行商して10両貯めた。次は荒物と布を仕入れて行商、倍に増やした。20両を手にした亀治は、次ぎに仙台で小間物売りをする事にした。
 仙台の小間物商・高橋甚之助は亀治の仕入れの仕方をみて「凡物にあらず」と感心。亀治を見込んで20両の資本に100両以上の品物を貸した。亀治はこれらを売り捌いては仕入れを繰り返し大いに儲けた。小間物つまり女の身の回りの品や化粧品をたくさん売ることができたのは愛想がよく女心の機微も心得ていたからだろう。そうして金を貯めた亀治は小売をやめて、卸商になる。
 卸商になった亀治は小売商人の誰彼なく貸し売りをしてやった。ところが正直者ばかりではないから貸し損が増え、ついに300両以上の負債を負ったてしまった。
 1873明治6年、多額の負債を負った亀治は自分の不明を恥じるだけで人を恨まなかった。やがて古本の売買をし儲かるようになった。
 3両の駄賃からはじまった商売は10年を過ぎて財産は2000両以上にもなったのである。

  「衣食足りてはじめて礼節を知る」
 亀治自身が不学のために不便を感じていたから、郷土の子弟のためにも教育を盛んにしようと決心、亀治は学を志し行動を起こす。
 1874明治7年、26歳の亀治は高田町の有力者に小学校建設の企画を説いて廻った。ところが、有力者らは「農業商業の子弟は研学の必要なし」と言うだけでなく、「学校を建て教師を常設すれば、その給料その他費用を賦課徴収される」と絶対反対が多かった。
 このような状況で小学校建設の計画は挫折しかけた。しかし亀治はあきらめなかった。商売を止め自ら学びつつ寝食を忘れるほどに奔走、遂に学校(のちの高田町役場)を建てた。

 ――― しかも(学校ができても)学事が振るわないとみると、教師の里見勲を援助して、無報酬にて半ヵ年間児童の開発教育に従事した(おそらくボランティアで授業を)。

 この後、県の学務係から伝習所に入るよう勧告され、晩学ながら袴を着けて磐井師範校伝習所に入学した。卒業後、4等*訓導として盛郷猪川村に新築された小学校で教鞭をとった。傍ら、立根・安養寺の住職・及川良順と協力して立根の教育にも3年ほど係わった。20歳代後半を教育につくした亀治、気仙郡教育上の恩人といえる。

*訓導:太政官布告による小学校の正規の教員の職名。中学校は教諭。

 1878明治11年、30歳になった亀治は袴を脱いでつまり小学校の先生を辞め再び実業界に入った。今度は木材を扱い、漁業にも携わり数年で4万円ほど利益をあげた。
 1884明治18年コレラが大流行。景気も悪くなり、亀治の事業もつまずいたが、奮起して鰹節を大阪で売って復興したうえ事業を拡大した。

 1896明治29年6月15日三陸地方に大津波、死者27,122人、流失破壊の家屋10,390戸という大災害になった。東北の太平洋岸は1933昭和5年にも大きな地震と津波に見舞われ、4年前の2011.3.11東日本大震災に遭い未だ復興の途上だ。それに加えて原発事故が起きて尚いっそう厳しい。

Photo 写真は『古今災害写真大観』(1935玉井清文堂)より。図上・釜石の家に襲来した海嘯、右下・雨戸板に座し海上に漂う老女が漁夫に救い上げられる所、左下・勇婦が家族4人を救出する光景。写真をクリックすると拡大。
 亀治も資産を減らしたが、今度は儲け仕事をせずに精神的快楽の方、茶道や碁を楽しむことにした。風流自適の晩年をおくることにつとめたが役職は果たした。村会・町会・郡連合会・郡会などの議員、郡参事会員、所得税調査委員、破産管財人など。
 1903明治36年、岩手県会議員に選挙され副議長となる。55歳。

 ―――県会議員といえば、放埒で、不品行で、法螺吹きで、無責任で、軽薄で、狡猾で、収賄詐欺をもって職業となすものの代名詞なるかと思わるる程、岩手県の県会議員の多くは腐敗し堕落して居るは事実であるけれども、三十頭顱(とうろ頭の骨・どくろ)ことごとく然り断言するは聊か苛酷である。中には血あり、涙あり、骨あり、気概あり、正義を重んじ名分を明らかにし真面目にして誠実なる人物も股少なからず、副議長・岩崎亀治氏の如き慥かにその一人である。ただに敬愛すべき県会議員であるのみならず、困難の中に活動し、辛苦の間に奮闘したる氏の既往の経歴は、成功の亀鑑として世に伝ふる価値がある。

       貨殖の秘訣

 記者(阿波直道・泥牛)が、如何にして金を貯うるやと問いしに、岩崎亀治いわく
「不要の金を使わず、必要と雖もこれを弁ずるを延期するのみ」と。記者思えらく、是れ吾人日常座右の箴(いましめ)とすべきである。 

  参考: 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『岩手県一百人』阿部直道・泥牛著1907東北公論社

               **********

      <特別展『3.11大津波と文化財の再生』>
                            東京国立博物館保存修復課長・神庭信幸

 2011年3月11日地震による大津波は東北の太平洋岸に所在する文化財に甚大な被害をもたらした。東京国立博物館は全国の仲間と文化財レスキューに参加し、被害が大きかった陸前高田市立博物館の被災文化財の再生に取り組んできた。今も懸命な作業が続く文化財の再生事業について伝えたいと特別展を開催。特別展のキーワードは
 ①「文化財のレスキュー」福島県では今も続いている。
 ②「安定化処理」海水に浸かり汚れ劣化の恐れがあるものを修理して安定化処理。
 ③「」 奇跡の一本松のあった高田松原にあった石川啄木の歌碑が失われたが、博物館に拓本が残されていたため、碑文を伝える貴重な資料となった。陸前高田の幼児教育の先駆者・村上斐(あや)のオルガンは震災後専門家の支援を得て音色を取り戻した。それぞれの物語を大切に再生している。
     2015.1.14~3.11 東京国立博物館 本館特別2室・特別4室
                同時期開催: みちのくの仏像
                     (上野のれん会発行『うえの』2015年1月号より要約)

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2015年1月17日 (土)

明治の仙台、新聞のはじめと発行人(宮城県)

 この世界から戦争は無くならないし残酷な大事件が後をたたず、知らずにいたいニュースがありすぎる。週一利用している日比谷線八丁堀駅、20年前に地下鉄サリン事件が起きた。発生直後の交信記録、後遺症に苦しむ人たちのニュース(毎日2015.1.15)は今だにぞっとさせられる。暗いニュースが続くとこの先どうなるのか不安にかられるが新聞から目が離せない。インターネットやテレビがあっても紙の新聞がいい。
 その新聞、今は毎日読めるが始まりは日刊どころか発行、維持経営が大変だった。地方では尚更と思う。例えば、東北仙台の新聞発行のはじまりを見てみる。改題を繰り返す新聞を系統で色分け。

      仙台と新聞

 1873明治6年4月3日、仙台で初めて木字活版を用いた「宮城新聞」が大町4丁目の知新社により発行された。メンバーは宮城県士族・太田有孚(ゆうふ)、山岸譲木村一知(かずとも)、横沢浄矢吹董ほか。
 同年6月5日、県内2番目の題号「官許東北新聞」(東北新聞)が創刊された。
  木字活版で官報と一般記事を載せ、美濃紙四つ折りの冊子型で値段は一部2銭5厘、不定期刊行。
  宮城県士族・須田平左衛門水科禎吉ほか藩校・養賢堂の傍らを借りて印刷していたが相愛社を組織、二日町表小路の角に社をおいて4号活字を用い機械で「東北新聞」を発行。

 1875明治8年、新聞紙条例発布。
     処罰の禁獄の刑、はじめ自宅禁錮だったが翌9年より監獄入りとなった。新聞の改題は経営よりも次にみるように新聞紙条例のほうが大きいようだ。

 1877明治10年2月、東北新聞を「仙台新聞」と改題、4ページだての隔日刊にする。
   社長・須田平左衛門は激しい民権論を展開して弾圧を受ける。獄につながれた須田は5月25日獄中で自刃、翌26日没(病死という話もある)38歳。須田は雄弁で政談演説会を開いたり第七十七銀行の創立を図るなど先覚者であった。

   主筆・高橋真卿は水戸藩士の子で号を羽皐。「甲府日日新聞」をふりだしに「茨城新聞」「宮城日報」「仙台日日新聞」などの主筆をつとめた。
 ちなみに新聞紙条例により「仙台日日新聞」で禁獄1ヶ月、その前の明治10年1月「甲府日日新聞」で禁獄50日の処罰を受ける(『筆禍史』宮武外骨)。
 *福島事件で交友が多く連座するのをみて、上京後、戯作者に転じる。1885明治18年、東京感化院(錦華学院)を創設した。1924大正13年死去。
 *福島事件: 1882明治15年福島でおきた自由党員・農民弾圧事件。

Photo 1878明治11年1月、「仙台新聞」を「仙台日日新聞」と改題、県下初の日刊紙となる。東京や近県に販売店を拡張。
 1880明治13年5月、播磨屋久治、禁獄1ヶ月となる。同年、「陸羽日日新聞」、16年「奥羽日日新聞」と改題を重ね、福島事件後の自由民権派の退潮のなかで県下発行部数第一となる。
 1903明治36年1月、「奥羽新聞」と改題するが、後発の「東北新聞」や「河北新報」(一力健治郞)に押されて経営不振に陥り、翌年廃刊した。

 
 1879明治12年、「宮城日報」が創刊される。1880明治13年4月、岡島新次郞禁獄1ヶ月に処罰される。同年11月、「福島毎日新聞」と合併して「仙台福島毎日新聞」と改題。14年7月さらに「仙台絵入新聞」と改題する。

 1889明治22年市制実施当時あった仙台市の新聞は、「奥羽日々新聞」「東北朝日新聞」「民報東北毎日新聞のち仙台新報」の三紙。
 1892明治25年、「東北新聞」「東北日報」「自由新聞」が発行され、「東北毎日新聞」など廃刊。
 1897明治30年、「河北新報」創刊。(当ブログ2014.6.14<明治・大正、屈指の地方史を築き上げた一力健治郞>)
   結局、「東北新聞」と「河北新報」が残り互いに競争。やがて日露戦争となり戦況速報にしのぎを削った。

 1910明治43年5月、「東北新聞」は松田常吉社長の死去により廃刊となり、残った「河北新報」の独占時代となる。

 1916大正5年の仙台市内の日刊新聞は、「河北新報」(東三番丁)「仙台日々新聞」(大町五丁目新丁)「東華新聞」(木町末無)の3社があり、いずれも政党政派の機関を標榜していない。
―――「河北新報」はまさに智者である、「仙台日々新聞」は仁者の風を存し、「東華新聞」は勇者であろうとある(『仙台繁昌記』)

   参考: 『仙台繁昌記』富田広重1916トの字屋/ 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館/ 『仙台藩人物誌』1908宮城県編/ 『明治時代の新聞と雑誌』西田長寿1961至文堂/ 『コンサイス日本人名辞典』三省堂

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2015年1月10日 (土)

名誉は高く謝金は低くの弁護士、野沢雞一(福島県)

 いつの時もニュースの種は尽きないが、明るいニュースがあればホッとする。なかでもスポーツ選手の活躍は何の競技でもなんだか励まされる。テニスの錦織圭選手がブリスベンの全豪オープンで勝ち抜く姿が何度も放送されている。その都度コートそばのBrisbaneの文字が目に入り旅行の思い出がよぎる。
 メジャーリーガーの一郎が、日本のオリックスの優勝旅行でブリスベンに宿泊中のホテルの前を通りすぎてコアラを見に行ったり、12月グリーンクリスマスのオーストラリアをあちこち訪れたりと夫と娘との三人旅が懐かしい。
 今や海外旅行は珍しくないが、150年昔は費用、交通機関、現代とは比べものにならない。でも、幕末明治の若者は困難な状況にあっても留学の機会を得れば、喜び勇んで海を渡り学問をしっかり身につけた。戊辰戦争で辛酸をなめた野澤雞一もその一人である。

               野澤雞一 (のざわ けいいち) 

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 1852嘉永5年、陸奥国野沢村(野沢原町/福島県耶麻郡西会津町)で生まれる。本姓は斉藤、のち野沢と改める。父は兵右衛門は里正(庄屋)、母は石川氏。幼名は九八郎。
 14歳のとき渡部思斎の研幾堂で法律や経済などについて学んだが、16歳の時、会津藩医・大島瑛庵に従い、英学を学ぼうと長崎へ向かう。

 1867慶応3年、長崎への途中京都に立ち寄る。折しも、山本覚馬が長崎から横山謙明を招き、会津藩洋学所を開き他藩の学生も教えた。野澤は覚馬を訪ね入学し、学業が進歩するに及んで会津藩主より三人扶持を賜り、臨時藩士なった。

 1868慶応4年、鳥羽・伏見の戦い。4月、薩摩藩兵が会津洋学所を襲い16歳の野沢は陣所の相国寺に連行された。捕らわれた山本覚馬と共に京都薩摩藩邸に幽閉される。この幽閉中に眼病を患っていた覚馬の建白書、将来の日本のあるべき姿を論じた『管見』を野沢が口述筆記した。

 6月、野沢は京都府の(旧幕府町奉行所)六角牢獄に移されると獄舎獄則惨憺たる有様。このとき虐待により野沢は足に障害を負った。数回の尋問を経て9月放免となり、年号は慶応から明治に替わっていた。明治天皇即位と改元の大赦により釈放されたのだが、歩けないほど弱っていた。それを見かねた役人が野沢憐れんで看護費用を与えた。ところが、看護人がその金を持ち去ってしまい食べるのにも困窮した。あまりの仕打ちを嘆く野沢少年を助けたのが鉄五郎という奥州生まれ(江戸とも)の侠客だった。こうした京都での艱難辛苦はのちの裁判官、弁護士の仕事に活かされたのは間違いない。

 1869明治2年、獄中の野沢を尋問した山田輹という人がまだ17歳の野沢を引き取り寄食させてくれた。
 1870明治3年、山田は野沢をドイツから帰朝した小松済治(横浜地方裁判所長)に預け、学資を出して野沢を大阪開成所へ入学させた。ここで同じく学生だった星亨と親しくなる。
 1871明治4年、星が教頭となった横浜の神奈川県立英学校「修文館」に移り、『英国法律全書』を星と共に翻訳、イギリスの法律を学ぶ日本の政治家や学生に活用され、法律整備の先駈けともなった。

 1872明治5年、星の推薦で大蔵省に入り、横浜税関職員など歴任。
 1874明治8年、新潟税関長代理に任命される。
  渡米(年代が資料により明治7年または10年)、アメリカのエール大学で法律学を学ぶ(渡米)。帰国後、星亨の義妹と結婚、星の政治活動を支えた。のちに星亨の伝記を編纂。筆者が野澤雞一を知ったのは『星亨とその時代』(東洋文庫)の編纂者としてである。
 1878明治11年、代言人(弁護士)の免許を得る。官を辞して民に生きることにしたのだ。
 
 1882明治15年、福島事件において星と一緒に弁護活動を行う。

 1889明治22年、さらに知識を深めるため再渡米、ニューヘーべン法科大学で学び、ヨーロッパを廻って帰国。のち神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人役場を設けるなど、日本の法整備やその確立において多大な貢献をした。
 代言人の仕事ぶりは、親切で困苦困難に陥った人をよく助けた。放火未遂の被告の娘を無実の罪から救った事もある(『高名代言人列伝』)。

 1923大正12年9月、関東大震災に遭い蔵書が全部灰になった。
 余談。『閑居随筆』(慶応大学図書館蔵)「閑居随筆前加言」に蔵書消失とあり、幕末から昭和までの激動をくぐり抜けた人物の記録が失われ残念に思った。弁護士という職業柄もあり種々の記録を有していただろうに、災害は文化も襲う。その生涯をなぞっただけでも興味深い人物だと思うが、伝記がないのは惜しい。『閑居随筆』の題から、ご隠居のゆったりした話柄を想像したが内容は深くて、文章も漢文調で筆者には難しい。目次から一部紹介――― 人心・易学・偶感漫語(利・時宜・貿易主義・無死・国民・満蒙領有・空間時間その他)

 1932 昭和7年、死去。
       野の澤の蘆邊の蔭の釣小舟 翁寝けん艫先のみ見せ
        なへて世の人の云ふまま打捨てて 我を立てねは心安かり
                              (『閑居随筆』1933野澤雞一)

 ちなみに、石川暎作はという従兄がいる。大蔵官僚で経済雑誌の記者。『アダムスミス富国論』を翻訳。1886明治19年28歳の若さで死去(『岩磐名家著述録』1941福島県立図書館)。

  参考:  写真:福島県観光交流局HPより/ 西会津商工会HP/
 『高名代言人列伝』原口令成1886/  『大堀(旧野沢)雞一君小伝:福島県第四撰挙区衆議院議員候補者』山寺清二郎1892

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2015年1月 3日 (土)

見よ、飛行機の高く飛べるを、明治の飛行家たち

 2015年、雪の正月を迎えた地方が多いが東京近辺は晴れ。元旦に雨戸を開けたら朝日が差し込んだ。雪も青空もある狭いようで広い日本の空。見上げていたらいつか見た雲の絨毯を思い出した。観光の飛行機は楽しいが、軍用機は困る。
 その軍用機が襲来した長い戦争が終わって70年。明治どころか昭和も遠くなっている。親にB29や疎開の話を聞かされたが殆ど薄れている。自分も含め年金世代でさえ爆弾を落とした飛行機なんか殆どの者が知らない。しかし、世界を見れば今なお曝されている厳しい現実がある。その一方で広大な空に夢と希望を托す人たちがいて私たちを励ましている。小惑星探査機はやぶさの冒険、科学は解らなくてもワクワク。つい先日、「はやぶさ2」が宇宙へ旅立ち、私たちに帰りを待つ楽しみを与えてくれている。
 こんなにもすぐれた技術日本、だけど、今春やっと国産飛行機が初飛行するという。戦前の軍用機(零戦など)生産を敗戦後、GHQ(連合国総司令部)が航空機に関する一切の活動を禁止したから開発が遅れたのだ。その後、航空機製造が解除され国産旅客機YS11、半世紀をへて国産ジェット旅客機MRJが完成、この春飛びたつ〔半世紀ぶり「国産」テイクオフ/毎日新聞2015.1.1より〕。
 ところで日本の飛行機はじめ、どんな様子だったのかな。明治を見てみよう。

 1893明治26年 二宮忠八、飛行機を試作(動力はゼンマイ、車輪付き)

二宮忠八  1866慶応2~1936昭和11年 愛媛県。
  人力飛行機の考案者、実業家。丸亀の歩兵連隊に在営中、カラスの飛ぶのを見て空中飛行を考え研究をはじめる。ゴム動力でプロペラを回す模型を製作し、1894明治27年日清戦争で従軍した朝鮮で、軍用に供する旨の上申書を提出、却下された。その後、ライト兄弟の成功を知り研究を中止、大阪に出て実業家となる。晩年、二宮の飛行機発明がライト兄弟より早いことが認められ、のち叙勲された(『コンサイス日本人名辞典』三省堂)。

 1903明治36年12月17日 ライト兄弟飛行機発明、初飛行

 1909明治42年 内田稲作、飛行機製作に乗り出す
 ―――芝区金杉浜町三十九 内田稲作(31)は、第16776号をもって空中飛行機の特許を受けたるが、米国ライト氏のものより勝る点少なからずという。内田式は翌年、模型の試験飛行に失敗(万町報42.7.25)。
                       (『ニュースで追う明治日本発掘』1995河出書房新社)

 1910明治43年 奈良原三次が複葉機(奈良原式第1号)を完成し戸山ヶ原で滑走

奈良原三次 1877明治10~1944昭和19年 鹿児島県
  航空工学者。余暇で飛行機を研究、のち第4号機で全国巡業飛行、民間操縦士育成につなげた。
 1911明治44年、所沢飛行場で奈良原機テスト飛行に成功。
 1912明治45年、奈良原式・鳳号が青山でおひろめ、観衆7万。

 1910明治43年12月14日 日野熊蔵大尉、代々木練兵場でグラデー式単葉飛行機で初めて飛行に成功(高度10m・距離60m)

 現場責任者の田中館愛橘博士が注視するなか試験飛行したが、距離は目測でしかなく、すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりの状況のようだった(万町報記者)。
 同12月19日 日野・徳川大尉が初飛行に成功・・・・・・将来我が国の飛行機を語る者はこの光輝ある両大尉の献身的事業にまず感謝せざるべからず(東京日日新聞43.12.20)。

      日野熊蔵 1878明治11~1946昭和21年 熊本県

  発明家・航空の先駆者。陸軍士官学校卒。
 1909明治42年、 臨時軍用気球研究委員
 1910明治43年、飛行機購入と操縦技術習得のため徳川好敏大尉と共にフランスの飛行学校に派遣される。その後、一人でドイツのヨハネスタール飛行場で操縦技術を学び、グラーデ単葉機を購入し帰国。

 ――― (日本に於ける飛行機の将来)飛行機を建造する技術さえ熟達すれば、廉価で優秀な、多数の飛行船を建造することができよう。何事にも創造の才あるフランス人は、飛行機においても先鞭をつけ、つづいて学究的なるドイツ人学理的方面に趨り、堅実なるイギリス人は、遅れて現れたけれども、あるひは実行の点に於いては成果を収めるかもしれぬ・・・・・・(中略)・・・・・・水雷上手の日本男児が、軽快迅速な飛行機に飛び乗って、度胸を据えてかかったならば、非常に目覚ましいことが出来るのではあるまいかと思ふ。
                          (『家庭十二ヶ月・一月の巻』1910啓成社)

 1911明治44年から翌年にかけて自身が設計の機体、日野式飛行機を製作。歩兵少佐・歩兵第24連隊付の身で負債を抱えてまでの飛行機開発が軍人にあるまじき行為として左遷された。
 1919大正8年、40歳のとき部下の失態で引責、軍人を辞め、その後生活は困窮した(参照。ウイキペディア・日野熊蔵)

        飛行機唱歌     歌・日野大尉、曲・岡野貞一 (『飛行機唱歌』1911共益社)

一、勇み立ったる推進機(スクリュー)の 響きは高し音高し
  時こそよけれ放てよと 弓手を挙ぐる一刹那

二、空を目がけて驀地(まっしぐら) 登ればやがて飛鳥(とぶとり)の
  背中も見えて白雪の 富士も目の下脚の下  (以下4~6番略)

 1910明治43年12月19日 徳川好敏大尉もアンリ=フェルマン式複葉機(50馬力・全長12m)で飛ぶ(高度70m・距離3km)/徳川大尉、三千メートルの大飛行 

       徳川好敏  1884明治17~1963昭和38年 東京
   飛行家。徳川篤守(*清水家)の長男。陸軍士官学校・工兵科卒。
        *清水家: 10万石、御三家に次ぐ家格。10代将軍家治の弟が江戸城清水門内に屋敷を与えられ一家をたてたのがはじまり。

 ―――  順当にゆけば彼は伯爵家の当主なのだが父篤守が家臣のために謬まられて、一家滅亡の悲運に悲運にあい(*礼遇停止)、不遇幾多の辛酸を隠忍せねばならなかった。堅実質素を旨とせる武人を選び、冒険的なる飛行界に投じて営々として始終しつつあるは、君国に奉持し以て家門の汚れを一掃せんと志したる為にはあらざるか(『現代之人物観無遠慮に申上候』河瀬蘇北1917二松堂書店)。
       *礼遇: 皇室から受ける特別の待遇

 1910明治43年、日野大尉と欧州派遣。帰国後、代々木練兵場でアンリ=ファルマン式による日本初の飛行を行った。
 ―――代々木原頭に駆けつけたるは山川健次郎博士、井上少将、徳永隊長、田中舘博士以下相次いで参集、場外には群衆詰めかけて・・・・・・徳川大尉、座乗部に上がれべ、轟然、また爆然、発動機の響きは百雷のごとく、推進器は疾風を起こし猛進すること暫し、約1500mの距離を往復すること前後27回、この間、時どき2m乃至6m地を離れて浮揚し、これにて滑走試験を終えたるをもって地を蹴って空中に浮遊せり。雄姿は70mの高空にかかり疾走矢のごとく、前後2回の大円形を描きて3000mの距離を飛行し、群衆の歓呼の声に迎えられ下降せり(東京日日新聞43.12.20)。
 1922大正11年、陸軍所沢飛行学校教官。
 1927昭和2年、飛行第一連隊長
 1935昭和10年、中将
 1944昭和19年、航空士官学校長

 名門の出なのに苦労した徳川好敏は初飛行で大人気出世する。一方、日野熊蔵は花やかで一時は好敏より人気があったが、初飛行以後は不遇であった。軍が技能より徳川の名をとったのもありそうだ。

 

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2014年12月27日 (土)

狂歌百人一首、大田南畝(蜀山人)

 今年も纏まりのないブログを読んでくださってありがとうございます。新しい年が皆さまにとってより良い年でありますように。

 気忙しい師走、うかうかしている間にもうすぐお正月。昔子どもだった頃、お正月には羽根付き、百人一首の絵札で坊主めくり、トランプもした。百人一首が好きになり全部覚えたらカルタ取りが楽しくて毎日でもしたかった。でも、札をとれない弟妹が「つまんない」と言うし、読み手の大人も忙しいといつの間にかしなくなった。
 現代の遊びは何もかもゲームに取って代わられたようで、のどかな遊び風景は滅多にみられない。今どきの子は目の前に人が居なくても一人で遊べる。スマホやゲーム機なら相手の顔色を窺わずにすんで気楽だ。だけど人付き合いの練習はいつ何処でする。

 百人一首といえば「小倉百人一首」が有名。他に狂歌百人一首・百人一句・百人一詩など変わり種、茶化したり皮肉ったりもあったが罪に問われなかった。ところが、発売禁止になった百人一首があったと『有閑法学』(1934日本評論社)にでていた。

 ――― 1693元禄6年「芝居百人一首」と題して出版すると、書物奉行・服部甚太夫に「卑しき河原者をやんごとなき小倉の撰にまねして憚りあり」と注意を受けた。そこで「四場居色競」と改題、しかし体裁は変えなかったのでさらに町奉行・能勢出雲守より発売を禁じられ、版元の平兵衛は軽追放に処せられた。
 数十部売り出したところで禁書になった「芝居百人一首」(四場居色競)現存するものがごく僅かで、それを演芸珍書刊行会が複製1914大正3年に出版した。その複製原本の持主が関根只誠という人で、彼が書き込んだ奥書により発禁の理由分かったのである。

 『有閑法学』著者の穂積重遠は、明治・大正・昭和期の民法学者で戦後、最高裁判所判事になった人。法律学者と百人一首は結びつきにくいが、穂積は「法律家だって笑い話くらい読む・・・・・・一口話とか川柳を読Photo_2
んで頭が権利義務の化石化するのを防いでいる」というユーモアの持主。まだ女性に参政権の無い時代、女性参政権の法律が議会を通過しなかったのを残念がる所もある。

 裁判所ではないがお堅い役所に勤めながら笑いを文化にしたのが、江戸後期の文人、大田南畝(蜀山人)。幕府の能吏でありながら、各方面の文人・芸能人と交わり、江戸市民文化の中心となり多くの作品のを残した。その中の「狂歌百人一首」から、つい笑ってしまったものを抜粋してみる。近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『大田南畝集』を見れば他にもいろいろ愉しめる。
 ちなみに並び順は、第一首・天智天皇からはじまり第百首・順徳院まで「小倉百人一首」と全く同じ。選者に諸説あるが並び順は定着しているようだ。

 


 狂歌百人一首   蜀山人


  秋の田のかりほの庵の歌がるた とりそこなつて雪はふりつつ      天智天皇

  いかほどの洗濯なればかぐ山で 衣ほすてふ持統天皇    持統天皇

  あし引の山鳥のをの*しだりがほ 人丸ばかり歌よみでなし    柿本人丸
               *したり顔

  白妙のふじの御詠(ぎよえい)で赤ひとの 鼻の高ねに雪はふりつつ    山部赤人

  鳴く鹿の声聞くたびに涙ぐみ 猿丸太夫いかい愁たん    猿丸太夫

  わが庵は都の辰巳午ひつじ 申酉戌亥子丑寅う治    喜撰法師

  ここまでは漕出けれどことづてを 一寸たのみたい海士の釣舟    参議篁

  吹きとぢよ乙女の姿暫とは まだ未練なるむねさだのぬし    僧正遍昭

  みなの川みなうそばかりいふ中に 恋ぞ積もりて淵はげうさん    陽成院

  陸奥のしのぶもぢもぢわが事を われならなくになどと紛らす    河原左大臣

  月見れば千々に芋こそ食いたけれ 我身一人のすきにはあらねど    大江千里

  このたびはぬさも取敢ず手向山 まだその上にさい銭もなし    菅家

  山里は冬ぞさびしさまさりける やはり市中がにぎやかでよい    源宋于朝臣

  心あてに吸はばや吸はん初しもの 昆布まどはせる塩だしの汁    凡河内躬恒

  ひさかたの光のどけき春の日に 紀の友則がひるね一時    紀友則

  忘らるる身をば思はず誓ひてし 人のいのちの世話ばかりする    右近

  徳利はよこにこけしに豆腐汁 あまりてなどか酒のこひしき    参議等

  由良のとを渡る舟人菓子をたべ お茶のかはりに塩水を飲む    曾禰好忠

  瀧の音は絶えて久しくなりぬると いふはいかなる旱魃のとし    大納言公任

  あらざらん未来のためのくりごとに 今一度の逢ふこともがな    和泉式部

  名ばかりは*五十四帖にあらはせる 雲がくれにし夜半の月かな    紫式部
        *源氏物語に「雲隠の巻」あり名のみにて文なし

  大江山いく野のみちのとほければ 酒呑童子のいびききこえず    小式部内侍

  夜を籠めて鳥のまねして まづよしにせい少納言よく知つている    清少納言

  友もなく酒をもなしに眺めなば いやになるべき夜半の月かな    三条院

  淡路島かよふ千鳥の鳴く声に また寝酒のむ須磨の関守    源兼昌

  何ゆゑか西行ほどの強勇が 月の影にてしほしほとなく    西行法師

  波かぜの常にかわれば渚こぐ あまの小舟の船人かなしも    鎌倉右大臣

  定家どのさても気ながくこぬ人と 知りてまつほの浦のゆふ暮    権中納言定家

  風そよぐならの小川の夕ぐれに 薄着をしたる家隆くっしゃみ    正三位家隆

  後鳥羽どのことばつづきの面白く 世を思ふゆゑに物思ふ身は    後鳥羽院

  百色(ももいろ)の御歌のとんとおしまひに ももしきやとは妙に出あつた    順徳院

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2014年12月20日 (土)

民の本は農工商の隆盛にあり、十文字信介(宮城県)

   
 このところ寒冷地ばかりでなく日本各地で大雪被害が相次いでいる。降り積もって災害をもたらす雪はスキー場の雪と違って、恐ろしいばかり。雪に閉じ込められ停電で寒さに震える地域に少しも早く電気が届きますように。天空に願いたい、降る雪を加減して銀世界と雪合戦を楽しめる程度に止めて。

 
        十文字信介の機知 雪合戦に勝つ

 大いに雪降り綿を飛ばすがごとし、海軍兵学校諸生徒は他日、帝国の*干城を期するもの。気昂ぶり腕鳴り、少年隊と青年隊の二隊に分かちて雪戦す。落花紛々、雪丸飛び霰(あられ)の如し、両隊苦戦
・・・・・・雪戦たけなわなるや朔風肌をさし手足凍結、両隊大いに悩む。信介走りて手桶に温湯を入れ、ひっさげて戦場に至る。之によりて少年隊は交々手を温め、寒さをしのぎ勝を得たり(『実業家奇聞録』1900実業之日本社)。
  *干城: 国を守る者、転じて軍人、武士。

           十文字信介

  先祖は奥州亘理郡(宮城県)十文字館の城主、のち仙台藩支封伊達安芸の居住地陸奥国涌谷(宮城県)に移住。五代目が南蛮流の砲術家として知られ、その子秀雄は砲術で伊達家の師範役になった。信介の父である。秀雄は江幡五郎当ブログ2014.2.15東洋史学者・那珂通世と分数計算器)と親友。
 信介は1852嘉永5年11月、陸奥国涌谷に生まれる。7歳で涌谷月将館に入り漢学を学ぶ。8歳で藩主の小姓となったが、口が達者で目上をはばからず銭庫に閉じ込められたこともある。
 家業の砲術を学び10歳にして和銃の不利を悟り、父と鈴木大亮に西洋砲術を学び銃を毎日発射した。そのため鼓膜が破れ、4年間の療養の間に嫌いだった読書に励み多くを得た。中でもアメリカ独立の租ワシントンの伝記に感動、激しすぎる己の品行を顧みて反省したという。
 1868慶応4年、16歳のとき戊辰戦争起こり佐幕、勤王がぶつかり物情騒然となった。信介は大義が勤皇にあるとして「勤皇」を腰刀に刻み奔走、佐幕派に挑み挫こうとしたが父に止められ思いとどまった。

       <農は国家の父母なり

 明治初年、叔父の十文字栗軒が*開拓使大主典として北海道に赴くのに随行、当地を見聞した。のち上京、箕作秋坪に入門して英学を学んだ後、海軍兵学校に入学。雪合戦のエピソードはこの時で元気だったが、激性胃腸病にかかり1年で退校。欧米の政治経済を学ぼうとしたが学資がなく、柴田昌吉と西洋人について書を読み政治経済を学んだ。
   *開拓使: 明治初期の北海道開拓と行政機関。明治15年廃止。

 1873明治6年ころ寺島参議が信介に与えてくれた蔵書中の政書に
「欧米政治の原は民にあり、民の本は農工商の隆盛にありて攻伐戦勝に非ざるなり」の一節があった。これを読んだ信介は、
経済の要は実行にあり、経国の道は農業を発達するより急なるはなし、此業にして盛んならずんば日本の富強は期すべからず」と農桑山林牧畜を学ぼうと決心、開拓使農学校に入学した。しかし間もなく農学校は閉校になってしまった。
 信介は方針を変え、「農業経済真理の実験」を行う事にして駿河台(東京)旧吉川侯の屋敷跡の空き地500坪を借りて農業を始めた。
 農夫2人を雇い、自らも耕した。西洋野菜、西洋葡萄の類を植え付け種苗を販売した。野菜はキャベツ・ビート・セロリ・パセリ・トマト・苺など。他に鳥の飼育、事業は利潤もでて、生活の方も使用人一人、食客数人をおけるまでになった。
 *津田仙が東京麻布に学農社を起こすと、これに加わり農書を学び『農業雑誌』の記者・編集長として刊行に尽力、また『農学啓蒙』『農業科学』『小学読本農学啓蒙』などの編著、翻訳をした。十文字信介の名が上がり広島県に招かれた。
    *津田仙: 農学者。明治最初の女子留学生、津田梅子の父。

      <広島県勧業課長、宮城県農学校長

 1878明治11年冬、広島県勧業課長になり赴任。広島に赴くとすぐに馬一匹と「小学読本」を買い求め、地理を覚え馬で市街を一巡した。勧業課長として殖産興業につとめる傍ら、農学の私塾を開くと、山陽はもちろん遠く故郷の宮城、北越からも子弟が集まり百名を超す人気であった。信介は喜んで毎朝5時起き、3時間の講義をしたが公立の農学校設立に尽力、私塾を閉じた。著作の教科書を安い値で販売しても版を重ね利益がでたので500円を宇品築港に寄付した。また、道路開削にも関心を寄せ、石洲街道開削に功があった。次は広島でのエピソード。

        十文字信介 井上馨を驚かす

 安芸の宮島付近の林、信介は猟銃でヤマシギを撃ち落とした。たまたま近くにいた井上馨参議が自分を狙撃したとして巡査に発砲者を探させた。巡査が信介を見つけると信介は
「予は*海山猟夫十文字信介なり。シギは射ったがサギ(参議)は射たないと井上に報ぜよ」といった。友人らは、信介生涯の大出来と賞した(『明治奇聞録』嬌溢生1911実業之日本社)。
    *海山猟夫: 家は砲術家なので狩猟にたくみで海山猟夫と号した。

 1884明治17年、父の病気で故郷に帰り、同年、宮城県農商課長兼農学校長
 1886明治19年、宮城郡長仙台区長
 1889明治22年、公務の合間の一首
     今日もまたよしあし原に分け入りて 思ふかままにかりくらさなん

       <政治と実業

 1890明治23年、富田鉄之助(2013.3.10剛毅清廉の実業家、富田鉄之助)と松島に「松島倶楽部」を作り松島の風光明媚を発揚した。同年、第1回総選挙に宮城3区から当選、大成会に属した。大成会再編問題が起き奥羽連合同志会を作る動きなどあったが、信介は第2議会が解散するとそのまま議院を去った。
 189326年春、銃器製造販売で実業界入り。『猟銃新書:傍訓図解』を著し、猟具館を開いた。
 事業経営、発明したものは、最新式石油発動機を輸入販売・鉄砲の製造・蒸気ポンプ・重過燐酸肥料・消火器・消毒噴霧器・改良農具など。
 1902明治35年、大日本農会第21回集会で「農業家目下の急務」東北地方苹果(りんご)栽培の必要を演説。
 1908明治41年8月12日、没。57歳。

 
  参考: 『百家高評伝』久保田高三1895文寿堂書林 / 『日本帝国国会議員正伝』木戸照陽編1890田中宋栄堂 / 『宮城県国会候補者列伝』藻塩舎主人1890晩成書屋  /  『宮城県国会候補者列伝:一名・撰挙便覧』日野欣二郞1890知足堂  / 『明治時代史事典』2012吉川弘文館             

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2014年12月13日 (土)

日露戦争時のアメリカ公使、高平小五郎(岩手県)

Photo
 ときどき国会議事堂の向かい、憲政記念館の展覧会に行く。ただしせっかくの展示も漢文の素養がなく、公文書や明治人の達筆は読めないが、生の史料は刺激になる。先日、【明治に生きた英傑たち 議事堂中央広間から歴史を覘く特別展】を見た。
 自由民権運動の勃興、帝国議会の招集と歩みと指導者たち、板垣退助・伊藤博文・大隈重信・・・・・・以前はこのような展示をただ感心して見ていた。しかしある時、ここでの展覧会には東北人が滅多に登場しないことに気付いた。歴史は勝者が記すと聞いたことがあるが、ここで開催される数々の展覧会もそのようだ。なぜなら幕末明治の歴史をふり返れば、東北に人物がいなかった訳ではなく、敗者の側は能力があっても舞台に上がれなかったから。
 東日本大震災で酷い目に遭った東北、もう3年9ヶ月もたつのに“被災地の声が届かぬ永田町”(岩手県被災者)の川柳が身につまされる。東北から原敬一人じゃなく首相が輩出していたらどうなんだろう。 写真:11月末に憲政記念館から見た国会議事堂。
 国政のリーダーでなく各国公使や書記官クラスなら東北人も登用されている。伊藤総理・板垣内務という元勲内閣時代に、オランダ弁理公使、イタリア特命全権公使を務めた東北出身者がいる。陸奥国一ノ関(岩手県)生まれの高平小五郎である。日露戦争時、小村寿太郎とともにポーツマス条約に署名したことでも知られる。

       高平小五郎

 1854安政元年1月14日、一ノ関田村藩、田崎三徹の三男として生まれる。
 1863文久3年、10歳で藩の祐筆、国学者の高平真藤の養子となる。
 1871明治4年、藩校「教成館」から選抜され官費生として上京、大学南校(のち東京大学)入学。
 1873明治6年、工部省燈台寮に出仕。
 1876明治9年、外務省入省。12年、グラント将軍前アメリカ大統領来日の際には接伴掛。同年10月から外務2等書記生としてワシントン勤務。14年、外務書記官。
 1883明治16年12月、外務権少書記官として交信局勤務。
 1885明治18年3月、外務書記官として京城に在勤。
 1887明治20年上海領事。23年総務局政務課長。24年ニューヨーク総領事。
 1892明治25年9月、オランダ駐剳*弁理公使兼デンマーク公使
      *弁理公使: 特命全権公使の次で、代理公使の上位

 1894明治27年8月、イタリア駐剳特命全権公使。28年、オーストリア公使(スイス公使を兼任)。日清戦争後、遼東半島還付の三国干渉を偵知して本国政府に報告、外交界に高平ありいわれた。
 1899明治32年、青木周蔵外相のもとで外務次官。

 1900明治33年、外務省官房長官を経て6月アメリカ公使。

余談:『現代女傑の解剖』より

 ――― 鳩山和夫(政治家・弁護士)がエール大学の学位を受けるにあたり夫人の春子も渡米、日本人夫妻はアメリカで大いに歓迎された。鳩山夫妻はあちこち招待され、その度に春子は日本女性の代表者として女性の地位をあげようと演説、拍手喝采された。公使として常に鳩山夫妻と同席、この様を目にしていた高平は春子にちくり一針、
「貴女よ、日本女子の位置を論ずるに先だち、宜しく貴女の夫和夫君の事を顧みられよ。和夫君の艶名は本国に於て嘖々たるものあるにあらずや、己の夫をして攀柳折花の風流あらしめ而して却つて女子の地位を説くは、寧ろ滑稽に値せざるか」

 今なら高平の一針に対し幾十針も飛んできそうだが時代は明治、著者・九百里外史は春子に追い打ちをかける。
 ―――高平は肯綮(急所)をついている、男女両性は互いに独立すべきものに非ず・・・・・・高平氏の言は、一場の揶揄に止まらずしてまことに肯綮に中りしものなり」そして和夫の女遊びは春子が余りにお転婆だから嫌気を生じてその慰藉の法を他に求めるに過ぎず

 1905明治38年、アメリカ公使在任中、日露戦争の講和会議に小村寿太郎とともに全権委員としてポーツマス軍港へ赴き、働いた。
 1906明治39年、功により貴族院議員に勅選。翌年、イタリア駐剳特命全権大使。

 1908明治41年1月、アメリカ大使。

当時、アメリカ国内では移民問題などをめぐって排日気運が高まっていたことから、第2次桂内閣小村外相は高平にたいして「日米永遠ノ和親ヲ維持スル」ために交渉にあたるよう訓令。11月、エリュ-=ルート国務長官との間に<高平・ルート協定>を締結。
 太平洋における商業の自由平穏な発展や現状維持、清国(中国)における商業の機会均等、両国領土の尊重など5項目を確認。正式には<太平洋方面に関する日米交換公文>、日本はハワイ、フィリピンに対する侵略的意図はないことを明らかにし、中国においてもアメリカとの協調を表明したのである。この件を近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で検索すると、

 ―――光緒帝と西太后の亡くなった月に日米政府の間に取り交わされた「高平・ルート覚書」といふものは妙なものである(『挑むアメリカ』)などの他、様々な立場から書かれたものがある。

 1909明治42年、駐米公使を免ぜられ、1912大正元年に待命満期で退官。
 1910明治43年、伏見宮貞愛親王に随行して渡英。
 1917大正6年、再び貴族院議員に勅選され15年まで務めた。
 1926大正15年11月28日、73歳で死去。墓は岩手県西磐井郡真瀧村瑞川寺。

    参考: 『明治時代史大辞典』吉川弘文館/ 『日本史辞典』角川書店/ 『現代女傑の解剖』九百里外史著1907万象堂/ 『興亜の礎石 近世尊皇興亜先覚者列伝』大政翼賛会岩手県支部1944  

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2014年12月 6日 (土)

星の村天文台とあぶくま洞、滝根町の明治(福島県)

 先だって、フィギュアスケートNHK杯、羽生結弦選手が怪我を押して出場し賛否両論だが、エキジビションの“花は咲く”を見て思った。羽生選手は、東日本大震災の被災者、ひいては困難のさ中にいる人々に励ましのメッセージを届けたかったのではないだろうか。このような応援もあれば、星の村天文台のように“”を届ける方法もある(毎日新聞「福島の星空をみてください」2012.7.19)。

 福島県田村市星の村天文台は東京電力福島第1原発から最も近い天文台で、浜通り(海岸沿い)・中通り(奥州街道)の中間付近、高約640mの空気が澄んだ高原にあり、星空の美しさは折り紙付き。
 天文台も震災で大きな被害を受け休館したが、「絆」と命名した新たな望遠鏡を得て再開。そして小型の望遠鏡を持って各地の避難所や仮設住宅を30カ所ほど回り、星の観察会や天文教室も開いた。

――― 一般的な観察会は親子連れが多いが、被災地ではおじいちゃんやおばあちゃん、車椅子やベッドに寝たままの人までもが望遠鏡をのぞきに来てくれた。木星や土星を見て、手をたたきながら喜んでくれた・・・・・・星の美しさは人々を癒やし、心の復興につなげる力を持っていると痛感した。全村避難となった飯舘村の支援も続けたい(星の村天文台長・大野裕明さん)

 この星の村天文台に隣接して「あぶくま洞」がある。あぶくま洞は1969昭和44年石灰岩採掘中に発見され観光鍾乳洞としてオ ープンして今に至る。このあぶくま洞や瀧根村を明治期の地誌や福島県案内で見ると土地に歴史あり、平安時代までさかのぼる。

――― 本村大滝根山の中腹に鬼穴と称するものあり。入口2丈余、深さ50間余の所に千畳敷と称する広間あり。なお20間余入れば二階と称する所あり甚だ険隘なり。また釣瓶落としいう穴あり。深きこと幾尋なるを知らず石を投ずときは暫くして微音あり。
 伝えいうこの窟は往古、東北の豪賊*悪路王、大多鬼丸など、*田村将軍追討の際、蹙迫身を容るる所なり。逃れてこの穴に潜伏せしものなりと、また近辺に屏風石、羽石などと称する大石あり。懸岩千仞、一臨人をして戦慄せしむ。又平山は金山石灰石にして殆ど無尽蔵なり。
  * 悪路王: 蝦夷の酋長で坂上田村麿に抗した伝説の英雄
  * 田村将軍: 坂上田村麿。平安初期、蝦夷地平定に大きな功績を残した。征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた。

 1889明治22年3月以前、菅谷村・広瀬村・神股(又)村だったが、明治22年4月から瀧根村となった。瀧桜で有名な三春町を距たること5里余り。戸数400余、人口3千余。物産は米、馬、蚕糸、薪炭、煙草なりとす。特に菅谷大六より産出した煙草は字名が煙草名となったほど。酒も、大正期『東北醸造家銘鑑』によると、滝根村・先崎徳蔵275石、猪狩孫一41石、二人の名がある。

――― 人情風俗。田村郡の人は性質朴直にして義侠心に富めり、然れども其性情の致す所、大事偉業を企図する者少なく、従って大財産家、大偉人を出さず。又義侠心に富めるが故に常に自己の損益を顧みずして他人を助け、又公共のために尽瘁する事を厭わざるの風なり。従って各自に於ける生計の度きわめて低く、概ね清貧に甘んずるものの如し。本郡の文学美術は大いに発達せるものの如し。*平野金華など・・・・・・。
  * 平野金華: 江戸期の儒学者。荻生徂徠の門に入り、服部南郭とならび詩文に長じた人物。奥州に生まれたので金華と号した。

 ――― 滝根村。尋常小学校は菅谷、神又、広瀬にあり。巡査駐在所は神又にあり。社寺は菅谷神社などあるが、入水寺は御朱印付にて殿堂壮麗近郷に稀なる大寺なり。しかし、有名な翁杉の中腹より発火し全伽藍灰燼となれり。灰中骨および脂の如きものありこれ大蛇なりしならんという。寺の後方に玉滝あり有名なり。
 木村にはつるヶ池、ます池、小野小町の片葉葦などの奇話及び古跡と称するもの数多あり。広瀬に鉱泉あり、打ち傷、切り傷に妙なり。

 参考: 『田村の誉』1904遠藤常師・坂本活版所/ 『最新田村郡小地誌』明治36、1903根本隆治著/ 『福島県町村沿革便覧』1894遊佐勝司編/ 『東北醸造家銘鑑』1924田子健吉編 東北醸造家銘館刊行会/ 『福島県案内』1931半崎多七 発行 古今堂書店

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