2018年7月14日 (土)

熊本の兄弟、徳富蘇峰・徳冨蘆花(熊本県)

 ある人に、徳富兄弟の兄・蘇峰のとみは、弟・蘆花のとみはと指摘され、人名辞典をくるうち、『不如帰』を読んでいた中学3年の教室を思い出した。放課後、誰もいない教室が暗くなり窓から身を乗り出し読んでいたら、「早く帰れ!」と先生に叱られた。なぜか、あの時の夕暮れの校庭、先生の声も覚えている。思えば「本さえ読めればなにもいらない」は当時からで今も変わらない。
 たいして欲しい物もなく、人を羨むこともないから不満は少なく穏やかに暮らせてる。しかしそれでも、あんまりな目に遭うことがある。でも、いい人のほうが多いから人間嫌いにはならない。世の中にはいろいろな人が居るから、事と次第で距離をとればいい。
 ただ、他人同士なら離れていればすむことも、兄弟となるとどうか。性格が合わないときついだろう。さらに、どちらも事績のある兄弟だとより難しそう。
 以下、『不如帰』解説・高橋修「徳冨蘆花略年譜」と『現代日本文学大事典』を参照させていただきました。

     徳富猪一郎(蘇峰徳冨健次郎(蘆花) 略年譜

 徳富家は代々、細川家の惣庄屋および代官をつとめる家柄。
 徳富一敬は淇水と号し、*横井小楠の門。妻、久子の姉妹には教育家の竹崎順子、横井小楠の妻つせ子、東京女子学院長の矢島楫子がいる。

 1863文久3年1月25日、猪一郎生まれる。肥後国上益城郡杉堂村(熊本県)の徳富一敬、久子の長男。
    猪一郎は9歳で漢学塾に入る。漢詩・漢文の文体は彼の特色となる。
 1868明治元年10月25日、健次郎生まれる。熊本県葦北郡水俣(水俣市)の一敬の三男。
    明治維新後、一敬は白川県(のち熊本県)七等出仕となる。
 1870明治3年、父一敬・熊本藩庁出仕となり一家で大江村(熊本市)に移る。

 1876明治9年、神風連の乱。猪一郎(蘇峰)京都同志社英学校に転校し、12月受洗。
 1877明治10年、西南戦争。健次郎9歳、猪一郎14歳。
 1878明治11年、健次郎は5歳上の兄猪一郎に伴われて同志社に入学。ここで内外の文学に触れる。
 1880明治13年、猪一郎はキリスト教に懐疑、同志社を退学して上京。健次郎も退学し熊本に帰郷し、父が設立した熊本共立学舎に入る。10月、猪一郎帰郷。

 1881明治14年、猪一郎は帰郷して大江義塾をおこし、翌年、弟健次郎が入塾。猪一郎は地方の新聞雑誌に執筆し、板垣退助や中江兆民らと交わる。
 1885明治18年、健次郎は母の受洗を契機として、熊本のメソジスト教会で姉とともに受洗。
   今治教会の従兄・*横井時雄宅に寄寓し、伝道と英語教師の職に従事、このころから蘆花の号を用いた。
      “世のため人のため、横井小楠・時雄父子(熊本)”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/02/post-ea3c.html

 1886明治19年、蘆花18歳、同志社3年級にに再入学。山本久栄と出会う。
    蘇峰23歳、『将来之日本』(田口卯吉の東京経済雑誌社)を刊行し文名を高める。
    12月、大江義塾を閉鎖し一家で上京、東京赤坂霊南坂に住む。

 1887明治20年2月、蘇峰は民友社を設立、進歩的平民主義的な、社会評論を主軸とした総合雑誌『国民之友』を創刊。ここから竹越三叉・山路愛山・国木田独歩・宮崎湖処子らが一群の文士が育った。
   蘆花19歳。夏休みに上京し新島襄の義理の姪・山本久栄との不幸な恋愛について両親に諭され久栄に決別の手紙を送る。精神的・経済的な行き詰まりから鹿児島に出奔。

 1888明治21年、蘆花は水俣に帰り熊本英学校教員となる。翌年、上京して民友社社員となり、校正・翻訳のかたわら文筆活動を開始する。
 1890明治23年、蘆花、『国民新聞』に移り、翻訳・評論などを担当。

 1893明治26年、蘆花、『近世欧米、歴史乃片影』(民友社)刊行。この頃より自然に親しみ各地を旅する。
 1894明治27年、日清戦争。蘇峰は大本営に従い、戦後は大総督府に従って新戦場を廻る。蘆花は同郷の原田愛子と結婚、徳富家と同じ赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家に住む。
 1897明治30年、蘆花は前年の夏、神経衰弱になり伊豆・房州などで静養し、この年、逗子の柳家に転居。『トルストイ』(民友社)刊行。

 1898明治31年、蘆花30歳、『青山白雲』(民友社)刊行。11月より『国民新聞』に「不如帰」を連載(~翌年5月完結)。蘆花の文名は上がり、その印税収入で兄、蘇峰からの経済的独立、精神的自立を達成させた。
   蘇峰の方は、内務省勅任参事官となり政界とつながりをもつ。しかし、従来の所論と相反する行為で、世間に変節を非難されて声望を失い『国民之友』は廃刊となる。
 蘇峰には功利主義的なところがうかがわれ、潔癖な弟蘆花との不和の原因ともなったようだ。その事情は、蘆花が『国民新聞』に連載した「黒潮」を中絶したことにもうかがえる。

 1900明治33年、義和団戦争北清事変)。
   蘆花、『不如帰』(民友社)刊行、大きな反響を得る。『自然と人生』を(民友社)刊行。民友社を退社、文筆に専念する。逗子から東京原宿(東京都渋谷区神宮前)に転居。
 1901明治34年、蘆花、『思出の記』(民友社)刊行。日本基督教青年会の委嘱で『ゴルドン将軍伝』を警醒社より刊行。
   同年12月、蘆花が『国民新聞』に発表した「霜枯日記の字句無断削除を機に蘇峰と絶縁状態になる
 1903明治36年、民友社と決別した蘆花は1月、自宅に黒潮社を設立。2月、兄蘇峰への「告別の辞」を巻頭に載せた『黒潮 第一編』を自費刊行。
 1904明治37年、日露戦争。蘇峰は『国民新聞』をして政府を支持したが講話問題で新聞社は焼討にあった。
   蘆花の序文で「不如帰」の英訳『Namiko』アメリカ・ターナー社より刊行。8月、愛子と富士山に登り、頂上近くで人事不省に陥る。これを契機として心的革命を経験する。

 1906明治39年、単身、4月パレスチナをめぐり、6月ロシヤのヤスナヤ・ポリヤナにトルストイを訪ね、シベリア経由で8月帰国。青山高樹町に転居。
 1907明治40年、父一敬、受洗。
    蘆花は、東京都北多摩郡千歳村粕谷(世田谷区粕谷)に転居し、土の生活に入ろうとしたが、結局、趣味的ないわゆる美的百姓の域をでなかった。

 1911明治44年1月18日、大逆事件の被告26名に判決が下り、12名死刑執行。蘆花は独自の社会正義の立場から、蘇峰や朝日新聞を通じて助命を図ったが果たせなかった。 2月1日、第一高等学校の講演会に「謀反論」と題し処刑された幸徳秋水らを弁護、校長*新渡戸稲造らの譴責問題に発展したが、熱烈な人道主義的主張として語り伝えられている。
         “札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造) と 有島武郎 (北海道)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html

   同じ2月、憲政擁護・第三次桂内閣排撃の国民運動の余波で、桂を指示する蘇峰の「国民新聞」が襲撃される。蘆花は同社再建のため兄蘇峰との交流を復活。9月、朝鮮京城で蘇峰と会見するも以後、臨終の時まで会わず。蘇峰は貴族院議員となるも大正2年、桂太郎の死去とともに政界と縁を絶つ。
 1914大正3年、父一敬、92歳で死去。蘆花、葬儀に参列せず親族との交渉を絶つ。

 1918大正7年、蘇峰「近世日本国民史」を『国民新聞』連載。のち学士院恩賜賞を得る。
 1919大正8年、蘆花は妻愛子とともに新紀元第一年を宣言して世界一周の旅に出る。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。国民新聞社・民友社焼失。
 1924大正13年、蘆花56歳。前年の「虎の門事件」(摂政宮裕仁親王狙撃未遂)を起こした難波大助助命意見書を宮内省に上申。9月、アメリカの排日運動に憤り、内村鑑三らと執筆した論文集『太平洋を中心にして』を文化生活協会より刊行。

 1926大正15年、昭和元年、蘆花は自伝的著述『富士』第二巻を福永書店より刊行。長期にわたる執筆の疲労から千葉県勝浦に転居。
 1927昭和2年、蘆花、東京粕谷に帰宅。2月、心臓発作がおき7月から伊香保で静養。9月18日、至急電報で駆けつけた蘇峰と再会し、その夜、死去した。59歳。病名は心臓弁膜症・萎縮腎等であった。

 1929昭和4年、蘇峰『国民新聞』を退き『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』社賓となる。
 1943昭和18年、蘇峰、第1回文化勲章を受ける。戦争中は「言論報国会」に重きをなした。
 1945昭和20年、敗戦。戦後は文化人としての戦犯となり追放となった。
 1957昭和32年11月2日、死去。弟蘆花の死から30年、享年94。
   蘇峰ほど著作が多いのは類がなく、総数300冊にも及ぶ。戦後はほとんど筆をとることなく熱海に蟄居していた。

   参考:『不如帰』徳冨蘆花2012岩波文庫 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院  

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2018年7月 7日 (土)

北上川三橋(明治橋・夕顔橋・開運橋)(岩手県)

 サッカーを知らない筆者でもワールドカップ、日本選手の活躍にはハラハラドキドキ。侍ブルーの躍動を2018.7.3早朝まで楽しませてもらった。無事な日常が当たり前のような気がしていたが台風7号と梅雨前線が日本を直撃し九州、四国、近畿から東北や北海道にも災害をもたらしている。死傷者もでた被害の大きさに驚くばかり。現地の困難が思いやられる。
 大災害の後は道路や橋が壊れ、建築物も痛手を受け作り直さなければならない。しかし、災害の復旧は簡単ではない。被災地が復旧するまでどのくらい年月を要するだろう。 そうした災害の復旧につとめた記録の一端が、「東北地方における土木年表」が『東北地方における 土木事業近代化の先覚者像』に載っていた。そこから明治期の岩手県の土木を抜きだし、ついで北上三橋の橋物語を加えた。

        岩手県に関する土木年表 (明治期)Photo


 1868明治元年、内務省土木関係年表。明治~大正、土木行政関係災害含む。写真は昔の岩手県庁舎。
 1872明治5年、オランダ技師ドールン、リンドウを雇入れる。
          岩手県胆沢川(金ヶ崎村~八幡村)の再巡橋架設工事着手。
 1874明治7年5月、明治橋が完成。

      明治橋 その一(昔は船橋)

Photo_2


 川原町から仙北町へ船を一列に並べこれを船橋といい、両岸の連絡を図り交通機関とした。その船橋を司る役人は南部藩から遣わされ、水主(かく)といい仙北町に6人、鉈屋町に24人おいた。その頭を船手奉行といい、次は小頭二人、詰め所を番所といった。洪水の時、船をみな両岸にひいた。
 藩主の通る時は赤御召の菱と鶴との御紋をつけた船を用いた。明治6年前は不便極まるもので往来しなければならなかった。船橋の夕照はなかなか見ものであった。
    旅人は急ぎ渡れと舟橋に しばしは淀む夕日かげかな (『郷土史蹟』)

     明治橋 その二(仙北町駅より5町)

 市の南方川原町より仙北町に出る長橋なり。長80間、幅4間、国道の要路にあたる。明治6年、時の県令・*島惟精これの工を起し、翌7年5月竣工す。
 橋の中ほどに堅固なる橋台ありその上に1碑を建て「明治橋」と刻す。*長三洲の筆なり。
 東は鑪山の奇峰を望み、西の堤上に古杉が繁り、また岩手山を抱いて自然の画景を作り、西は延々とした雫石川を介して中央山系の連山と相対し風景真に絶佳なり。而して昔は舟橋にして付近に御舟蔵ありき。舟橋は岡城八景の一として人口に膾炙す。
     舟橋夜雨 原文は漢詩)
  夜の雨に水いやまして 波風にと渡る人もいそぐ舟橋
  
     廬山暮雪 原文漢詩)
  降りつもるたたらの山の雪は また花の雪咲く夕暮の空
                         (文と写真『最新モリヲカ案内』、『盛岡案内』)

長三洲: 幕末・明治期の漢学者・書家。豊後大分の出身。戊辰戦争には奥羽に転戦、のち、文部省学務局長、侍読などを歴任。

 1875明治8年、西磐井郡花泉町夏川の支流、磯田川の洪水による災害復旧工事完了。
        岩手県令・島惟精の計画で宮子~盛岡間の閉伊街道改修工事完了。
        岩手県と秋田県の計画で国見峠の秋田街道が改修、開削される。
        西磐井郡地方が水害に襲われ、北上川および迫川の沿川部が、被害を受ける。また、上の橋、下の橋、明治橋、夕顔瀬橋が落橋(岩手県・宮城県)。

    夕顔瀬橋 (盛岡駅より10町)        

Photo_3 市の西方、茅町より新田町に至る長橋にして国道にあたり、長さ54間、幅3間半なり。昔しばしば河水氾濫し、霖雨あるごとに落橋する有様なりしを以て、明和年間、盛岡藩の側役・大向伊織なる人の苦心研究の結果、河床の中央に堅固なる橋台を築き、犠牲を供して、神仏に祈願をなせしより、大にその患を減ずるに至れり。その橋台、今なお(大正12年)存し、二基の石灯を建てて岩手山を祭る。
 夕顔瀬の名は康平年間(1058~'65)、源頼義その子義家と共に安部貞任を打ち、このところに迫るや貞任力尽き、遂に苦策を弄して夕顔(瓜)を頭としたる藁人形を造り、これに甲冑を纏わしめて擬勢を張りしより出でたる名なりと。
 橋は近く厨川の柵趾を望み、遠く岩手山と相対し、眺望頗る佳なり。

     夕顔瀬夕照 (原文漢詩)
  行かふや遠近人の声まして 夕日を渡る夕顔瀬橋
                                   (引用、明治橋に同じ)

 1876明治9年、道路の種類・等地・規格を定める(国道・県道・里道にわけ、それぞれ1~3等とする)。
       この頃から旧奥州街道を国道とし、磐井郡真柴村~二戸郡釜沢村まで延長する。

 1877明治10年、建築技師コンドル来日、西洋近代建築工学を委嘱。
 1878明治11年、宮城県野蒜港の修築工事にともない、*北上運河の開削。
     北上運河: 12km 幅25m。北上川(岩手・宮城2県を流れる)河口近くの石巻市丸井戸から南方へ通じ、釜入江から海岸に並行、鳴瀬川河口の浜市に至る。

 1880明治13年、大橋~釜石鉄道の建設が完成。
     工部省の計画でイギリス人の鉄道寮建築技師チャールズ・シッパルトの設計、阪神鉄道工事従事者らの施工および、鉄道寮建設助役ジー・パーセルの功労で完成する。

   “運河を貞山堀と名付けた早川智寛(宮城県・九州小倉)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/04/post-befe.html

 1881明治14年、秋田県平鹿郡横手駅より岩手県和賀郡黒沢尻駅間に平和街道が完成。
 1882明治15年、宮古港の埋め立て工事が完了。
 1883明治16年、岩手県の道路11路線、函館街道、秋田街道、浜街道、津軽街道、八戸街道、小本街道、宮古街道、釜石街道、平和街道、今泉街道、気仙沼街道と北上川堤防および前記の道路の架橋が完成。
 1894明治27年、西磐井郡地方、大水害に襲われる。

 1896明治29年、岩手県において福岡~久慈間の府県道が完成する。
          盛岡市の大洪水により夕顔瀬橋、開運橋が流失する。
     6月15日、三陸地方に大津波。(死者27,122人、流失・全半壊8891戸、船被害7032隻)。 岩手県三陸沿岸各地において、船溜り、船揚場、港湾、道路、橋梁、護岸などの復旧工事に着手する。

Photo_4


     開運橋 (盛岡駅より3丁)

 新築地より停車場に至る県道に架す。大正2年8月、洪水のため大半を奪われて久しく仮橋によりて通行せしが、昨年6月新架橋なり。24日、開通式を挙行せり。工費7万2700余円なれど、請負師の請負契約後、鉄材騰貴の厄に遭い生ぜる損失を加算する時は、実際において10万余円を投じたると同一なりと称せらる。
 全長46間1分。中央の4間幅を車道とし、両側に一間二分づつの人道あり。車道は防腐剤を注入せる厚さ3寸の松材を敷き連ね、更に1寸のセメントを塗りその上に、その上に3寸の松材を縦列し、その間隙にアスファルトおよび砂を充填せる最新様式にして、人道はセメントにて固めたる上に橋板をしく。
 将来電車を通ずべき時期あるをみこして設計したるものにして、全国に於いても試みたる事なき建設様式なるという。橋脚3あり、高さ33尺。内部をコンクリートにて固め、外部を花崗岩にて畳たり。橋の袂には花崗岩を磨ける高き袖垣をめぐらし、16個の飾り灯を点ず。
                                          (引用、明治橋に同じ)

 1902明治35年、盛岡~石巻間の北上川に貞水工事を完了する。全長200km。
 1910明治43年8月8日、東海・関東・東北地方一帯に豪雨。浸水44万3千戸。
      阿武隈川、名取川、北上川など台風に襲われる。盛岡の大洪水により、中津川の三橋、与の字橋、明治橋などが流失する。
 1911明治44年、西磐井郡永井村において、金流川堤防復旧工事を完了。総工費720円60銭、堤防決壊43間、深さ25尺、国庫補助を受けて村が事業を行う。

      参考: 『東北地方における 土木事業近代化の先覚者像』1996東北建設協会 / 『最新案内モリヲカ』1918勝又太郎  / 『盛岡案内』1926盛岡市 / 『郷土史蹟』1925小保内弘四・森喜久治編 / 『日本史年表』1990岩波書店 / 国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/

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2018年7月 3日 (火)

雄勝硯・宮城県と震災・仙台地下鉄 & 仙台平 (宮城県)

 梅雨のさなか。上野公園を通り抜けようと動物園前にでたら、パンダ人気で雨にも負けず賑わっていた。それを横目に東照宮の長~い階段をくだりその先、鴎外荘に行った。福島県大熊町「読書の会」がそこであり、ふとしたご縁で参加した。
 大熊町民の方は避難先の会津、秋田、関東などさまざまな所から見えていた。大震災・原発事故により故郷を離れ、はや7年。言いたいことは山ほどあるでしょう。でも、読書会のこの日、会場の空気は穏やかで温かかった。これまでの苦労をいたわり、解り合える友人・知人と再会、笑顔で交歓できたからでしょう。
 読書の会、企画の一つが「わたしの一冊」。
 グループ毎に各々が一冊を選んだ理由、感想を発表しあった。限られた時間ながら語られる本、ジャンルはむろん味わい方も人それぞれ、多様でおもしろかった。
 小学校・中学校の先生方から、読書活動についての報告もあった。そのなかに「子どもが大人や先生にへすすめる本」 という活動が紹介された。子どもが薦める本て、どんな本? 孫も大学生になり、絵本や児童書を見なくなって久しい。それで、近所の図書館の児童書コーナーをのぞいてみようと出かけた。
 ところが、新刊コーナーに『地図で楽しむ すごい宮城』(2018.6.6都道府県研究会)があり、何がスゴイか借りてそのまま帰ってきてしまった。ページをくると、「すごい○○」はどの県にもありそう。ネーミングがスゴイです。せっかくなので「宮城のすごい」、幾つか取りだしてみた。

                雄勝石(おがついし)・雄勝硯

Photo_2


 約600年前の室町時代: 宮城県北東部、良質の硯の産地として知られる。

 江戸時代: 伊達政宗も雄勝硯を愛用、雄勝石産出の山を「お留め山」として管理。

 明治: 桃生郡十五浜村ノ内 雄勝浜一帯ノ産地ヨリ産ス、一ニ玄昌石ト称シ、硯材、石盤、*スレート瓦及其他ノ石細工ニ適ス、硯材ハ赤間・高島ト声価ヲ均フシ、スレート瓦ハ美観、耐久ノ故ヲ以テ世上ノ賞賛ヲ博シ、需用日ニ盛ニシテ、近年遠ク海外ニ輸出スルニ至レリ、上図ハ採掘ノ場所ニシテ、下図ハ其製作荷造ノ景況ナリ(『東宮行啓記念宮城県写真帖』1908宮城県編纂)

   *スレート: 薄く簡単に剥がせるため、石盤・敷石・碁石、屋根瓦にも使われる。
   『東宮行啓記念宮城県写真帖』: デジタルライブラリーにあり、明治41年の宮城県が見られる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780859

 現代: 雄勝産の天然スレート(黒色粘板岩)は品質の高さから、法務省旧館・神長官守矢史料館・東京駅丸の内駅舎の屋根に用いられている。
 2013平成25年、衰退傾向にある「雄勝硯復興プロジェクト」発足。

 

          宮城県にまつわる震災の歴史
 
   869貞観11年、貞観地震 規模M8.3~8.6: 津波により多賀城下で約1000人の溺死者。

      “末の松山(宮城県と岩手県と)”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2013/08/post-53b3.html

 1677慶長16年、三陸地震 規模M9.0 : 大津波で伊達領の溺死者1783人。
 1616元和2年、宮城県沖地震 7.0 : 仙台城が破損
 1793寛政5年、寛政地震 8.0~8.4 : 仙台藩で死者12人、家屋倒壊1000棟以上。
 1835天保6年、宮城県沖地震(仙台地震) 7.0: 仙台城が破損

 1896明治29年、明治三陸地震 8.2: 北海道から宮城にかけて死者・行方不明者2万人以上。後の昭和の三陸地震とも、陸地から離れた日本海溝付近で発生したため、地震動による被害は小さかったが、津波により太平洋沿岸に大きな被害をもたらした。
 
 1933昭和8年、昭和三陸地震 8.1: 津波による死者・行方不明者300人以上、家屋倒壊・流失1400棟以上。
     “『津浪と村』地理学・民族学、山口弥一郎 (福島県)”
     http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/01/post-d5d1.html

 1962昭和37年、宮城県北部地震 6.5: 宮城県の北部で発生した。
 1978昭和53年、宮城県沖地震 7.4: 死者28人、負傷者は約1300人、被害総額は約2688億円
     丘陵を造成した宅地に大きな被害が生じ、さらに、ガス、水道、電気等のライフラインの被害により市民生活に混乱が生じるなど、都市型の災害が生じた。
 この宮城県沖地震が発生した海域付近では、1855安政2年M7・1/4、1897明治30年M7.4、1936昭和11年M7.4 と、ほぼ40年間隔で同程度の規模の地震が発生している(「東日本大震災:宮城県の発災後1年間の災害対応の記録とその検証」宮城県)。

          東西南北を走る仙台市地下鉄


     “仙台史跡めぐり”
    http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/05/post-1b77.html

 仙台駅から東北大学付属図書館を訪れた帰り、「国際センター駅」から地下鉄に乗った。旅先で地下鉄に乗れるとは思わなかったのでもの珍しかった。
 駅舎も地下鉄もピカピカだったが、それもそのはず乗った東西線は2015平成27年、今から3年前にできたばかり。
 ――― 東西線は13.9km、東京都営地下鉄大江戸線などと同じ新機軸の鉄輪式リニアモーター方式で、南北線より規格の小さなミニ地下鉄であり、輸送需要にふさわしくバランスがよい。車輌は伊達政宗の兜の前立てをイメージした三日月を前面に配している。ただし兜の無骨さはなく、ゆるキャラのようなラブリーなデザイン。(『地図で楽しむ すごい宮城』)
 デザインについて知っていれば、車輌をしっかり眺めて乗ったのに残念。

 ――― 南北線は1987昭和62年、全国で10番目の地下鉄として開業。当初からATOによるワンマン自動運転で、約13kmに16駅が置かれ、道路の慢性的な渋滞を解放させた(同書)。

 地下鉄東西線・南北線はどこにもありそう。東京都内の東西線は早稲田大学オープン講座に行くのに利用する。南北線は後楽園・東京ドームに行くのに乗る。でも近ごろ、チーム振るわず行く気しない。仙台の楽天ファンも同じかな。それでもお互い応援がんばりましょう。

          仙台平

 2018平成30年7月2日  “国民栄誉賞 希望を被災地に 羽生弦選手
     ――― 羽生選手は紋付きの羽織はかま姿で出席。 江戸時代に仙台藩で生まれた最高級絹織物「仙台平」のはかまは、人間国宝の甲田綏郎氏から贈られた逸品だ(毎日新聞2018.7.3)。

   フィギュアスケート男子、羽生弦選手。ただただ、感心してみつめるばかりだが、心映えがまた素敵だ。羽織はかま姿に見とれるばかりだったが、仙台平ときいて宮城県人でなくとも なおうれしい。前の記事を思いだした。
          “袴の代名詞・仙台平、小松彌右衛門 (宮城県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2014/03/post-f6ce.html
   

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2018年6月23日 (土)

明治150年/戊辰150年、その前の江戸湾防備 (会津&富津)

 2018平成30年は明治150年にあたり記念展覧会がある。そのうちにと思う間に日が過ぎてしまったが、千代田区JCIIフォトサロンでは、【明治150年記念「幕末・明治の古写真展 明治を築いた人々】―――坂本龍馬や勝海舟、五代友厚、福澤諭吉、北里柴三郎ら明治維新を生きた人々の雄姿を伝える写真展があった。

 国立公文書館では「明治150年」記念特集。
公文書に見る近代化の歩み>を紹介している。http://www.archives.go.jp/ 
 ところで、今ニュースに登場する一連の公文書はいつ公文書館に送られる?そしてその公文書は原本そのもの? それとも・・・・・・ こんな心配をさせられる現状が情けない。

 国立文書館の展覧会は明治150年関連がテーマ、第1回は「戊辰戦争」(~6月30日)
  「明治維新150年」でなく「戊辰戦争」なのは、「戊辰150周年」を唱える側に配慮したのか。
 折しも会津から冊子『戊辰150年記念「薫蕕(くんゆう)を選びて」』(岩澤信千代2018戊辰150年記念誌刊行委員会)が届いた。
   ページをくると、会津人にとって戊辰戦争後の150年の歴史はゆるくない歳月と分かる。その一方で誇りを持ち前進するバネにもなったのが察しられる。戊辰戦争を戦った会津や東北の藩士たち、今なお故郷の人々を励ましている。

           房総湾岸警備、会津藩

 さて、黒船こと外国船は戊辰戦争が始まるより早くから来航している。幕府は江戸湾岸(東京湾)の防備を厳重にするため、忍(大房崎~洲崎)・会津(富津岬~竹岡)・川越(走水~観音崎)・彦根(久里~三崎)いわゆる「御固(おかため)四家」に防備を命じた。
 幕府はこの四藩に財政援助を行い優遇、会津藩は金一万両を下付され領地も与えられた。会津藩はその村々を富津陣屋竹ヶ岡陣屋で支配した。ここで富津の海岸防備をみてみる。

 1801享和元年6月、伊能忠敬が富津海岸を三日間、測量。
 1807文化4~5年、幕府役人が伊豆・相模・安房・上総を巡視、砲台の築造に着手。
 1810文化7年、幕府は白河藩安房・上総会津藩相模の海岸防備を命じる。
 1822文政5年、洲崎砲台を富津に移す。
 1823文政6~7年、イギリス捕鯨船員が茨城や鹿児島に上陸し乱暴を働く。
 1825文政8年、幕府は外国船は見つけしだい打ち払えという命令をだす。
 1842天保13年、アヘン戦争で中国が敗れる。この状況に幕府は打払令を廃止、外国船へ薪・水などを与えるように命じる。その一方で、海岸防備の体制を強化。

 1847弘化4年、幕府は海岸防備を厳重にするため忍藩に安房会津藩に上総の守備を命じる。このとき会津藩では富津砲台を増強したり、小久保七曲に砲台を新設したりした。

   お台場建設は海中を埋立てて工事を行うため、大量の建設用材や大砲の資材が近隣から集められ、寺の梵鐘が徴発されたり人足・馬・船・荷車などが動員された。
 会津藩は人員はもちろん大小砲弾薬、兵器を房総の陣屋に送ったが、太一郎の父、柴佐多蔵も富津に出張。
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 房総半島の富津砲台は、JR青堀駅からバスで富津岬に行き松林を抜けたところに史跡として残り、側の展望台にあがれば、三浦半島はおろか横浜も見えるほど見通しがよい。
 東京湾フェリーで35分、千葉・富津神奈川・観音崎を結ぶ6~7キロの湾口は、黒船を入れてはならない重要な防衛線である。

 1849嘉永2年3月、会津藩房総警備の者が三浦半島の三崎沖に異国船を発見。
     イギリス軍艦マリナー号が浦賀で、バッテラを乗り回し浦賀水道を勝手に測量しはじめた。この内海乗入れで、ますます富津・観音崎ライン突破の危機がたかまった。
 会津藩は富津と竹ヶ岡台場、陣屋を忍藩から引継いだが、二つの陣屋それぞれに家老・番頭以下船方役まで100人以上の家臣が勤務した。その後、両陣屋の人員は計1400人にもなり、大砲小銃474門、新造船19隻が備えられた。

Photo_2 警備の藩士は陣屋を本拠として、毎日、砲台や見張番所などへ通った。会津藩は三浦半島での海防経験があり水練も見事で、奥州の山国とばかり思っていた他藩の人を驚かせた。
 竹ヶ岡砲台は3ヶ所築造され、それぞれに大砲が5門ずつ据付けられた。
 会津藩は警備につくや土塁を増築、砲を据付けた。木更津の海岸に哨兵廠と武庫をつくり、江川太郎左衛門の鋳たヘキザン大砲、当時としては超弩級を安房の砲台に備えた。
 ただ、砲弾の射程は小筒砲が200m、大筒砲でも3,400mで異国船に有効な射弾をあびせることは不可能であった。
 
 赴任する家臣の多くは家族をともなっていたので、陣屋遺構から女性の化粧道具や子どもの玩具、皿小鉢、土鍋など調理器具などが発掘された。
 調査報告によると、陣屋の外側を堀、土塁で区画し、陣屋の内側は長屋塀によってさらに区画する重厚なものであった。また、内側に数多くの長屋建物が軒を連ね、近くには鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所があった。
 本陣近くに家臣の住む長屋が25棟あり、組頭として出張していた柴佐多蔵も家族と住んでいた。
 1852嘉永5年2月、18歳の松平容保が会津藩9代藩主となる。その12月、柴家に8番目の子で四男の茂四郎が生まれた。後の東海散士・柴四朗、柴五郎の兄である。

 1853嘉永6年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官、海軍代将ペリー軍艦4隻をひきいて浦賀に来航。
幕府はペリーの再来に備え警備の重点を品川沖においた。そのため、会津藩は新に江戸湾品川第二台場砲台の守備を命じられた。明治/戊辰150年の始まり西暦1868年まで、あと15年。

   参考: 『富津市のあゆみ』1983富津市史編纂委員会 / 『東京湾の歴史』高橋在久1993築地書館 / 「富津陣屋跡発掘調査報告書」1997君津郡市文化財センター(図版・写真引用) / 「国立公文書館ニュース Vol.13」2018 /『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』中井けやき2008文芸社

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2018年6月16日 (土)

西南戦争と熊本隊、池辺吉十郎父子(熊本県)

  『明治の一郎 山東直砥』を出版し2ヶ月余り。「個々のエピソードがおもしろい。教科書に載る大物に会っても気後れしない主人公が頼もしい」 「明治の会津人を書いた後に元勲寄りの人物を書いてみる。勝者と敗者が合わさっての社会なのだから・・・・・・この視点がいい」など、好意的な感想に今なお山東直砥と離れがたく、先日も東京府文書『庶政要録』(明治二十四年)<芝区内における所得税納税者>で山東を見つけた。
                    https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305100/index.html
    山東直砥 東京製氷社長  芝公園地33 32,730円 
    福澤諭吉 無職業       三田212      96,255円

幕末・明治初期、無一文だった山東を思えばずいぶん出世したものである。

 西南戦争から十余年明治も半ばになると、西南戦争後のインフレーション、松方財政、緊縮財政をきりぬけ【東京買物独案内、業種別有名店】案内が発行されるほど商業が発展。それにしても、活路をみいだした者はいいが、西南戦争を戦い生き残った士族は明治をどう生きたろう。
 多額の税を払えるほど資産を蓄えたり、政界進出など表舞台に登場するより思うに任せない人生の方が多そう。それでも生きていればいい、道半ばで倒れ、戦死・刑死した人々はいたましい。それを惜しむ人々は後日談を語り伝える。そうした一人が熊本藩士・池辺吉十郎、明治のジャーナリスト*池辺三山(吉太郎)父である。
   “明治期、熊本出身二人の池辺、池辺義象・池辺三山”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-1350.html

                         池辺 吉十郎
Photo_2


 左の挿絵は『鹿児島戦争記』(『明治実録集』新日本古典文文学大系2007岩波書店)。
 右から池辺吉十郎西郷隆盛・一人おいて桐野利秋
  なお、池辺吉十郎は肥後西郷といわれ、子の池辺三山は修業時代に東海散士柴四朗の下で教えを受けた。

Photo      右の写真は
   『西南記伝 中巻』
 1838天保9年1月11日、熊本京町宇土小路(熊本市)に生まれる。
 1847弘化4年、藩校時習館で学び、居寮生に抜擢される。
 1862文久2年、家督を継ぐ。翌3年、時習館世話役・御番方組役。
 1864元治元年、京都守護を命じられ、帰藩後、第二次長州征伐のさいの小倉出兵に従う。
     2月5日、長男の吉太郎(のち三山)生まれる。
 1867慶応3年5月、京都詰公用人として京都に赴任するも、1年足らずで帰藩を命じられ、玉名郡代、山本山鹿郡代助勤兼務となる。
 
 1869明治2年8月、熊本藩少参事となる。
 1870明治3年、細川護久が知藩事となり実学党政権が誕生。吉十郎ら学校党の人は免職、参事を辞任する。
      学校党を指導。往生院に学舎を開き、ついで玉名郡横島村に転居し私塾を起こす。
 1877明治10年、西南戦争
     西郷隆盛率いる鹿児島県士族起こした反政府暴動。大久保利通ら明治新政府が国内の近代化を強力に推進しようとし、西郷らと新生国家の進路をめぐって抗争が生じた。
    2月15日、「政府に問ふ所あり」として西郷を総指揮者として兵1万3千人を率いて挙兵。熊本県下を通過して北上せんと鹿児島を出発。

 “西郷立つ”の報は九州各県士族に大きな期待を与え、熊本士族をはじめぞくぞくと旧士族が部隊を編制して西郷軍に加わった(党薩諸隊)。
 熊本鎮台司令長官・谷干城は籠城してこれを阻止することを決定。
 池辺吉十郎は鹿児島遊学の経験があり、薩摩の村田新八と話合い西郷の決起が伝わると西郷軍に呼応しようとした。しかし参加をめぐり議論が百出、紛糾したため吉十郎は憤慨。川尻の薩軍に走り、「禁闕(きんけつ禁門・御所)守護」の名目を受ける。そして大方の賛成を得ると、吉十郎は後輩の佐々友房、肥後の子弟約1300人、15小隊の熊本隊を編成し出陣。
 熊本隊は県内の保守主流派である旧藩士(学校党)が主であった。諸隊最大の部隊で、総帥の池辺吉十郎は肥後西郷といわれ、誠実で度量があり士を愛した。
 西郷軍はこのような士族たちを取込みながら鹿児島を飛出し、一目散に熊本へ押寄せたのである。

 2月22日、西郷軍は熊本城を包囲、総攻撃を開始、籠城は4月14日まで52日間続いた。
 主力は南下する政府軍を阻止するため北上したが、高瀬で敗退。以後、山鹿・植木・田原坂、吉次峠をはじめ激戦となる。熊本隊は御船・矢筈岳の戦闘に活躍。その後、薩軍本隊と各地を転戦、行動を共にしたが、ついに宮崎県長井村で政府軍に包囲された。

 ―――5月上旬、肥後の旧知事細川護久君は、深く旧藩士の賊徒たるを悲しみ、降伏せば、一命に換えても諸子のために寛大の御沙汰を願い奉るべしとひそかに説諭書を認め腹心に命じて赴かしめたり・・・・・・賊将池辺吉十郎は右の使いに面会し・・・・・・ありがたきことなれども、いったんかくと企て同志いたせし上は今さらとなりて変説を致すべくもあらず、事ならざればもとより賊の汚名を受けて死する覚悟なりと・・・・・・断然、旧知事の説諭を謝絶せし趣なり (東京日日新聞1877.5.24)

 8月17日、西郷の解散指令により西郷軍は降伏。
        主戦場となった熊本は焦土となり、人心は荒廃し、甚大な被害を被った。

    池辺吉十郎は脚気に罹りて歩行自由ならざるゆえ・・・・・・ひそかに匿れ養生せしゆえ、9月1日、鹿児島へ突入することあたわず・・・・・・割腹に及ばんとする際、説諭をうけて取りやめしが、19日、病いまったく癒えければ城山へ忍び入らんと、官軍の車夫となりて入り込みたれど、警備厳重なるにより、やむを得ず戦場をうち捨て・・・・・・養生かたがたただ録録としておりたりしを、ついに去る10月15日、警視隊探偵者に縛せられ16日、宮崎の臨時裁判所へ・・・・・・(『西京新聞』1877.10.24)

   10月15日、吉十郎は警視隊探偵者に捕らえられる。
   10月26日、長崎臨時裁判所死刑、斬罪された。このとき吉十郎39歳、子の吉太郎12歳。    

Photo_2 西南の役後、吉十郎の戦友・佐々友房は熊本国権党をたて国会議員となる。佐々の同志、柴四朗は吉十郎の遺児、池辺三山と政論雑誌『経世評論』を発行。三山は主筆論説記者として才能を発揮、明治のジャーナリストとして名を上げる。
 その記者時代、父の死から十年余年あまりして三山は柴四朗に同行、条約改正問題の中心人物の一人、谷干城をインタビュー。その日の谷の日記
「十二月三日土佐を発す・・・・・・此日柴氏も来る。池辺吉太郎も亦然り、吉十郎氏の子なり」

 熊本鎮台司令長官として西郷軍を退けた将軍のもとに、刑場の露と消えた敵将池辺吉十郎の息子が現れた。谷は三山に敵将の面影を見いだしただろうか。

  参考:『熊本県大百科事典』1982熊本日日新聞社 / 『熊本県の歴史』1999山川出版社 / 『明治日本発掘』1994河出書房新社 / 『新熊本市史』2003新熊本市史編纂委員会 

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2018年6月 9日 (土)

佐渡金山、佐渡奉行川路聖謨、松浦武四郎、柴田収蔵ほか(新潟県)

Photo_3  どっと笑うて立浪風の(ハイ ハイ ハイ)  荒き折ふし義経公は(ハイ ハイ ハイ)  いかがしつらん弓取り落とし(ハイ ハイ ハイ=以下はやし同)  しかも引潮矢よりも早く  浪にゆられてはるかに遠き  弓を敵に渡さしものと  駒を浪間に討ち入れ給い  泳ぎ泳がせ敵船近く  流れ寄る弓取らんとすれば  敵は見るより船漕ぎ寄せて  熊手とりのべ打ちかくるにぞ  すでに危うく見え給いしが  すぐに熊手を切り払いつつ  逆に弓をば御手(おんて)にとりて  元の渚にあがらせ給う(下略)
  相川音頭・新潟県佐渡郡相川町地方の盆踊り歌)

Photo 花咲く鴇の島三日間、佐渡ツアーに友人と参加。うたい文句通りのトビシマカンゾウの群棲を堪能し、(トキ)が優雅に舞うのも見た。トキの森公園へ向かうバスに揺られていたら「トキがいる!」 みれば優雅に空を舞っている。もちろん羽の色はあの鴇色、きれい。
 一泊目は両津加茂湖(淡水湖だったが今は汽水湖)の畔に泊まり、夜は♪両津甚句佐渡おけさの実演。翌日は相川に宿泊。夕食のあと尺八・笛・太鼓の生演奏と歌と踊り♪相川音頭をたのしんだ。
 笠をかぶった踊り手(立浪会)に風情があり歌声も余韻があってよかった。掛け声のハイハイハイがおもしろい。相川音頭は金山奉行の上覧にそなえる「御前踊」と呼ばれ、ハイ三つは御奉行様に気を使ってらしい。

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 佐渡の相川と言えば金山!見学コースが「江戸金山絵巻コース・宗太夫坑」と「明治官営鉱山コース・道遊坑」に分かれている。さて、明治鉱山を選んだのは私だけ、友人はじめツアーの皆は江戸金山を選んだ。
 江戸コースは、坑道跡に坑夫の人形あり採掘作業を再現している。機械化された明治コースは変化に乏しい。いずれにしても採掘に携わった人々の困難苦労はたいへんなものだった。
 採掘された鉱石をより分けた「北沢浮遊選鉱場跡」が、<近代化産業遺産の象徴「東洋一の浮遊選鉱場」>として残されている。

 ところで佐渡金山もさることながら、は最盛期(慶長から元和・寛永1615~1644頃)には世界総産出額の15%を占め、幕府の財政を大いに潤した。幕府は佐渡を直轄地にし、相川に奉行所をおいて支配。
 奉行所の建物は焼失と再建を5回くりかえし、その都度姿を変えて、明治維新以後は役所や学校として使われた。
 1942昭和17年の火災により江戸時代の建物は失われたが、保存整備事業がはじまり、お役所(行政部分)が復元された。
 再建された奉行所の立派な座敷と欄間などを目にすると昔が偲ばれ、ここを訪れた人物についても知りたくなった。どんな用事、目的で奉行所の門をくぐったのだろう。何人かみてみた。

 写真、復元された佐渡奉行所と白州

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   川路 聖謨 (かわじとしあきら) 
                           1801~68(享和1~明治1年)

 1840天保11年6月8日佐渡奉行の命を受ける。 佐渡奉行は定員二名。うち一人が現地佐渡へ、一人は江戸在勤。
     7月11日、江戸を出発して24日、相川到着。

  川路佐渡奉行の佐渡巡見3月12日
  ――― 北五十里村・椿村・吉住村・羽黒村・梅津村・夷町に至り小休。夫よりここにて昼かれい食べ候て、同所の御蔵・御番所見廻り、湖水を船にて巡覧。
 きしのさくらなど、よき咏也。常にはここにて網引かせ、猟師にかもなどとらせてみるよし。鉄砲はさら也、網をも引かせず、湖水(加茂湖)の中央迄乗出せしままにて引きかえりし也。
 夷町は東南にうみ・湖水あり、北に金北山あり、咏よきのみならず、地理ことによろし。ここの本間という某(それがし)が宿せし本陣は、即ち佐州が国主*本間が末にて、今以て豪家也(『島根のすさみ――佐渡奉行在勤日記』川路聖謨2006東洋文庫)。

   *本間家: 相模国海老名氏一族の出で、1215建保3年に佐渡の守護として入国、以来佐渡を統治した。しかし、戦国時代に上杉氏に滅ぼされ、数家に分かれて佐渡に土着したという由緒ある家柄。
 幕末、本間家の本間精一郎は、勘定奉行・川路聖謨に中小姓として仕え、ペリー来航時、川路が京へ赴くと本間も従った。その後、本間は勤王の志士たちと交際、江戸や京、長州などで倒幕・尊皇攘夷を唱える。その間、松本奎堂らと意気投合するが、そこに若き日の「明治の一郎こと山東直砥」がいた。山東はやがて本間の紹介状を懐に北越に赴き勤王の同志を募る。

   “『明治の一郎 山東直砥』”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2018/03/post-375c.html

 話がそれたが、川路はほぼ一カ年佐渡にいた。その間、奉行所機構の建直し、宿弊の刷新など奉行として可能な限り実施。ほかにも佐渡奉行所属の学問所、修教館の再建に尽力、佐渡風俗をまとめた書の増補追加を企図したりする。
 1841天保12年5月下旬、江戸に帰る。
 
      
        アーネスト・サトウ (1843~1929)

  イギリスの外交官。1862文久2年来日。オールコック公使パークス公使を助けて活躍。あるとき、野口富蔵を供に連れ、イギリス公使、パークスに従い佐渡を訪れる。 

   <日本役人との社交――新潟・佐渡金山及び七尾視察
  ――― 我々は新潟を出て、昔から有名な金鉱地佐渡ヶに渡った・・・・・・ 冬期よく吹く西北風のために荒れて越されぬ時、外国船の碇泊できるような良港が、この佐渡ヶ島にあるといふことを、我々は新潟の奉行(ガバナー)から聞いている・・・・・・皆揃って金山見物に出掛けた・・・・・・当時そこは低い屋根をかけた窖で、半分水浸しになっており、勇敢に這入りこんで行った者は、人間の英国人といふよりもまるで溺れかけた兎のやうになって、外へでてきた・・・・・・その晩に乗艦し、抜錨して能登の七尾に向かった(『維新日本外交秘録』アーネスト・サトウほか著1938維新史料編纂事務局)。

   “英国公使館員アーネスト・サトウが信頼する会津藩士・野口富蔵(福島県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/10/post-a74e.html

 
       松浦 武四郎 (まつうらたけしろう) 1818~88(文政1~明治21年)

   幕末・維新期の探検家。伊勢国出身。

 1847弘化4年7月24日、新潟から両津に、船問屋・近江屋某に泊まる。
   7月27日、相川。28日、石花(村長宅に泊まる)
   ――― 30日間佐渡に滞在したい旨届ける。身元引受人の旅館の主と役所に願いでたところ、八畳敷きの小長屋で待たされ、およそ午後3時ころになって白州に呼び出され、広間役(奉行所の要職であり地役人の最高職)が出てきて、下役と両方の縁側に出て国所並びに宗旨、年、何の用事で何処へ渡海したかを聞き糺し30日の滞在を申し付ける・・・・・・また帰国の際には役所へ届け出て湊出航の判をもらい帰ることになる(『佐渡日誌』松浦武四郎著・佐藤淳子語訳2009北海道出版企画センター)。
 1854安政1年、安政大地震。藤堂藩に依頼され下田に向かう。
      ロシアのプチャーチンのディアナ号、下田大地震により沈没。     
 1855安政2年、柴田収蔵に会う。
  

       柴田 収蔵 (1820文政3年~1859安政6年)

   佐渡宿根木に生まれた地理学者。家は農業と四十物(海産物)をしていたが継がず、蘭学の医学、天門地理学を極めた。
   宿根木の古い町並みは今、吉永小百合さんが佇む観光ポスターがきっかけで観光客が増えてるとか。細い路地を歩いてみればなるほど風情がある。

 1835天保6年頃から、相川の地方絵図師・石井夏海と文海親子のところに通い、地図の製作や篆刻(てんこく)などを学んだ。
 1839天保10年と14年の2回、収蔵は勉学のために上京した。シーボルトにも師事したことがある伊東玄朴の塾に通って蘭学を学んだ。
 1845弘化2年、宿根木で開業した。
 1847弘化4年、松浦武四郎が宿根木を通過。
 1850嘉永3年、三度目の上京。このころ知り合ったのが、地理学の大家・古賀謹一郎。すでに描いていたメテオ・ロッチ(イタリアの宣教師)の万国図を改訂したとされる「新訂坤輿略全図」の不審な箇所を古賀からいろいろ指摘され、助力を得て完成させる(『幕末明治の佐渡日記』磯部欽三2000恒文社)。
 1852嘉永5年、楕円形政界地図『新訂坤輿略全図』を発行。カラフト・ニューヨーク・ボストンなど当時の最新情報を記し、研究の確かさがうかがえる。鎖国政策下において、世界に目を向け多くの世界地図を残した(生家跡の案内板より)。
 思い違いでなければ、『新訂坤輿略全図』が明治大学図書館で展示されていたのを見たことがある。
      
 1854嘉永7年(安政元年)ころ、天文方雇となる。
 1855安政2年1月9日、江戸で松浦武四郎と会う。その後もたびたび会っている。
      1月12日、松浦と同道、一勇斎国芳方へ蘭画を見物に行く。松浦の著作であるアイヌ語一覧『後方羊蹄於路志』(しりべしおろし)を相鼠斎蔵版の名で発行。ほかに『蝦夷接壤全図』などがある。
 1856安政3年12月、蕃書調所絵図調出役に採用される。
 1859安政6年1月12日、豊島町鍛冶吉十と松浦を訪ねる。

         佐渡金山の近代 と 大島高任

 1868慶応4年、イギリス人、ガワーが火蒸発法を伝える。
 1875明治8年、ドイツ人、レーが洋式「大立竪坑」開削
 1885明治18年、*大島高任が佐渡鉱山局長に、高任立坑などの建設を指示。
 1890明治23年、鉱山学校設立、日本初。
 1900明治33年、高任発電所(水力)が稼働、新潟県初。

   “釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-8322.html

2018.6.9
   朝、TVをつけたらNHK「すてき旅」は佐渡、鬼太鼓を舞う様が映っていた。そういえば、旅の途中あちらに「鼓童」の拠点があるとガイドさんが言っていた。佐渡の太鼓はもとから地元で愛されていたようだ。
 旅は行く前も楽しめるが、旅の後も余韻があっていい。次はどこへいこうかな。

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2018年6月 2日 (土)

岩手医科大学創立者、三田俊次郎(岩手県)

 毎日新聞「雑記帳」、各地を取材中の記者が身近な話題を紹介しておりたのしみに読んでいる。ときどき切り抜くが日付の記入を忘れがち、次の記事も年月は判らない。

 ――― ◇ 盛岡市の小中学校で7日、国際連盟事務次長も務めた同市出身の新渡戸稲造(1862~1933)ゆかりの給食が出され、国際色豊かな料理に子どもたちの笑顔が広がった。
     ◇新渡戸が亡くなった地、カナダとの縁で、カナダでよく食べられる豆を使ったサラダや、「キャラメルおじさん」と呼ばれるほど頻繁に子どもたちに配って喜ばれたキャラメルが献立に加えられた(後略)

   “札幌遠友夜学校 (新渡戸稲造) と 有島武郎 (北海道)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/04/post-3c9a.html
   “明治:野球は巾着切りのゲーム?”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/04/post-5fb9.html
 新渡戸稲造と交際があったか判らないが、新渡戸が生まれた翌年、三田俊次郎という同県人がいる。年齢が近く出身も同じ岩手県ながら、新渡戸は広く知られるが三田を知る人はどの位いるだろう。事績をみるとなかなか興味深いので紹介したい。

        三田 俊次郎

 1863年文久3年3月3日、盛岡磧町(かわらちょう盛岡市加賀野)、盛岡藩士・三田義魏(よしたか)、大竹キヨの次男として生まれる。ちなみに長男は義正。
 1876明治9年、下橋小(盛岡学校、旧上衆興寺、五年制)を卒業。
     用教員をしながら独学で中卒の力をつける。

 1880明治13年、県立*岩手医学校入学。
     *岩手医学校: 同校は当初、公立岩手(病院)に併設の医学所を昇格し、公立岩手医学校(三年制)と改め、さらに県立へ。明治17年に県立甲種岩手医学校と変転。財政難で19年に廃校、岩手病院だけが残り、これに医学講習所を併設したが、21年、これまた廃止。病院も翌年、盛岡市民だけが、受益者ではと廃止された。
 当局の無定見ぶりに俊次郎も義憤を感じ、後年、医療施設に情熱を燃やす動機となった。自らを“三竣医夫”と称しノートに署名、印鑑も作ったという。

 1884明治17年、兄義正は県議選に出て当選。日清戦争の好況を利用し、実業界に進出、資産をなす。
 1885明治18年、甲種医学校と改称され初の卒業生。助手として勤務。
 1886明治19年、三等助教諭で医術開業免許状を取得したが、前述のように廃校となったため、岩手師範専任校医や、南閉伊医郡病院に勤め、ついで岩手病院医員調剤員となった。

    三田家は資産がないわけではないが、父は病弱、兄義正は事業に失敗して、伝来の田畑も人手に渡り、経済的窮迫状態に落ちこんだ。そこで俊次郎は病院の閉鎖で職も解かれたので、早く開業医となり、自活の道と病院再建の資金にあてたいと考えた。
  ?年、 東京帝国大学医学部選科に入る。河本重次郎教授のもとで眼科学を学ぶ。
      帰郷しして盛岡市加賀野に眼科医院を開業。

 1897明治30年、閉鎖中で空いていた県立岩手病院の建物を借り受て病院を復活。
     この中に設けた医学講習所を「私立医学校」として実習に便利な病院内に移す。資力を人材育成に用い、看護婦養成や医書を首とする岩手図書館もこれに併設した。
     同年夏、岩手病院院長にドイツで外科学を修めた杉立義郎博士を迎え、以来、30余年間在任、評判がよかった。俊次郎は自ら院長とならず杉立と副院長には三浦を迎え、人心収攬にもつとめた。

 1898明治31年、岩手育英会を発足。育英資金貸与の道を開いた。
 1901明治34年、私立岩手医学校を創設、明治45年、廃校。
     盛岡市議に当選。医学校など事業を進めるために政治力の必要を痛感したためで、以来、昭和4年まで6期、28年間在任。
 1910明治43年、盛岡市議会、副議長に推される。
    兄義正ら一族の協力をえて、岩手育英会や盛岡実科高等女学校(岩手女子高等女学校)、作人館中学、岩手中学(岩手高)、岩手商業などの創設または継承した。

 1928昭和3年2月、岩手医学専門学校を設立、、初代校長に就任。
    俊次郎はかねて岩手県の医療貧困を憂い、早くから盛岡に医学校を置くことの必要性を説いていた。医専の開設にあたっては文部省にいた県出身者、貴族院議員になっていた兄義正の政治活動、九十銀行役員らの協力を求め、文部省認可に漕ぎつけた。

 1931昭和6年、開校3年目、全校生によるストが突発。
    原因は施設の不備で、卒業しても医師の免状が与えられるかどうか、不安と不満が募ったためである。県公会堂で学生大会が開かれ、校長退陣要求、文部省に直訴する騒ぎとなった。俊次郎は全学生を無期停学処分にしたが、裏では父兄に書状をおくり説得につとめた。けっきょく、一週間で停学処分をとき、これを機に、施設や器材も整備され、医師免状も交付された。
    病院としても一般外科医を東大医学部に留学させ病理解剖学の担当に、レントゲンも当時として早く診療に応用、医員二人を東大に留学させた。ヨーロッパ留学中の医員に命じ最新式のレントゲン装置をドイツから購入するなどもした。病院の最大の特徴は病院は創立当初から施療部を置き、貧困者の無料診療につとめたこと。
    同6年~8年、結核患者のために岩手サナトリウム(結核療養所)
           精神病患者に岩手保養院を設立。
        
 1942 昭和17年9月、病のため死去。享年80。
       兄三田義正とともに県内の文化のために大きな礎石を築いた。
 
 ・・・・・・盛岡市に於て、政治的趣味あり、事業的頭脳あり、哲学的理想あり、教育的思想あり、一種異彩ある医者の生まれたるは、洵に空前絶後の奇蹟なり、而してその奇蹟の主人公は誰ぞ、問ふまでもなく言ふまでもなく三田俊次郎なり・・・・・・(中略)
・・・・・・三田竣に大海の慨なく深井の趣あり、磊落の態なく険陰の姿あり、之を以て野心家と誤解せられ常に三割以上の損あり、岩手の一好漢、惜しむべき哉(泥牛)。

   参考: <盛岡市 盛岡の先人達>盛岡市先人記念館  /  『岩手の先人100人』遠山崇1992岩手日報社 /  『岩手県一百人.第1編』阿部直道(泥牛)1907東北公論社

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2018年5月26日 (土)

天災は忘れた頃にやってくる、寺田寅彦

 ニュースで麻疹がはやっているのを知り、『明治の一郎 山東直砥』主人公が、勤王の志士・松本奎堂の書生となって訪れた四国・淡路島で麻疹にかかり寝込んだのを思い出した。
 ――― 1862文久二年は日本中で麻疹が大流行。二月頃、長崎来航の西洋船から伝染、次第に京大阪に広まり春頃には江戸にまで広がった。文政、天保の時に比べ今回は特に激しく『武江年表』によれば「命を失う者幾千人なりや、量るべからず・・・・・・寺院は葬式を行うに遑あらず、日本橋上には一日棺の渡ること二百に及べる日もありとぞ」

 幕末まだ新聞は発達してないから病気の流行を知って用心するのは難しい。今は新聞、雑誌、インターネットなど情報があふれる。ただ紙媒体は押され気味、とはいえ新聞の影響力を実感した。「日本経済新聞2018.5.4文化欄」に「中井けやき」がのると、20年も会っていない知人からメールがきた。遠方の知人からも連絡があり、技術の発達は距離も時間も縮めるのを感じた。
 そうした技術や科学の難しい事はさっぱりわからないが、そうしたことに携わる技術者には興味があり、『東北地方における土木事業近代化の先覚者像』をみていたら<内務省技師の横顔>に寺田寅彦が登場していた。
 寅彦は物理学者であるが、「災害」に強い関心をもち、「防災」に鋭い意見をだしていることから土木事業近代化の先覚者として小伝が掲載されたようだ。寅彦の随筆集を一冊もっているが、学者の寅彦は知らないというか解らない。そこで事蹟を少したどってみた。

        寺田 寅彦

 1878明治11年11月28日、東京麹町平河町(千代田区)で生まれる。
     筆名、吉村冬彦。俳号、藪柑子(やぶこうじ)・牛頓(ニュートン)。

   ?年、 東京番町小学校入学、その後、高知市外江ノ口小学校へ転校
   ?年、 高知第一中学校
   ?年、 熊本第五高等学校
      物理学を田丸卓郎教授に学び、夏目金之助(漱石)に英語を学んで心酔した。その当時からの漱石の門下生なので、最古参中の最古参になる。

   ?年、東京帝国大学理科大学実験物理学科に入学。
     山川健次郎(物理学科を創立・東大総長)、*田中舘愛橘長岡半太郎・本田光太郎ほかよき物理学の師に恵まれた。
      “文化勲章と断層発見物理学者・ローマ字論者、田中舘愛橘(岩手県)”
      http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/11/post-f325.html

 1898明治31年、漱石の運座(うんざ)―――人が集まって同じ題、またはそれぞれの題で俳句をよみあい、すぐれた句を互いに選び会う会に出席。その推薦で句が『ホトトギス』や新聞『日本』に掲載された。

 1903明治36年7月、東京帝国大学物理学科卒業。
 1904明治37年、東大講師。研究発表を始める。
     耳がよく音楽に堪能で音響学、波動学的な論文を発表
     講師として物理学を指導。かたわら大学院入学。
 1905明治38年ごろから、東京千駄木の漱石山房には三日にあげず、遊びに行った。
     表現のおもしろさに気づき、俳句やエッセイを多く残している。漱石から愛弟子のように可愛がられ、漱石は門下の中で寅彦を畏敬した。『我輩は猫である』の水島寒月や、『三四郎』の野々宮宗八は寅彦がモデルといわれる。漱石を通じて、正岡子規とも知り合う。

 1906明治39年、関東に異常な大降霜があり、その善後処理として農事試験場、蚕業講習所、中央気象台、各測候所の協議会となり西ヶ原農事試験場において霜害予防の研究がはじまる。
 1907明治40年、岡田気象台長の推薦で農商務省農事試験場嘱託となる。

 1908明治41年、尺八を音響学から研究して理学博士の学位を受ける。
     この研究は、日本の伝統に科学の精華を融合させたもので、有名な業績の一つ。

 1909明治42年、助教授。ドイツ・イギリスにへ留学。そのさい寅彦は、漱石にオルガンを預ける。
 1909明治43年3月、宇宙物理学研究のため満2年間イギリス留学に出発。
     主としてベルリン大学にて、ウィーヘルト教授に地球物理学、ヘルマン教授に気象学、A・Dシュミット教授に地磁気学を学ぶ。
 1910明治44年4月、帰朝。宇宙物理学の講座をもち昭和2年まで続いた。理科大学で教鞭をとる。

 1912大正元年、「X線の結晶内透過について」の論文を発表。
     海洋学への興味から越中島水産講習所嘱託となる。
 1915大正4年、週期性の発見。
 1916大正5年、東大教授。大正7年、航空研究所兼務。
 1919大正8年12月、胃潰瘍のため吐血入院。2年ほど静養につとめる。その間、科学者の観察眼で拾った題材をきめの細かな叙情詩に仕上げる。独特の随筆を多く書いた。
 1920大正9年、学術研究会議員会。大正11年、測地学委員。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。14万もの死者が出た。
    寅彦は中村清二とともに火事や旋風の調査にあたった。地震研究所が新設され所員となり、寺田研究室を開いた。また、土木帝都復興委員会で「旋風について」と題して火災時の旋風を講演している。その随筆集には数多くの「災害」あるいは「防災」に関するものが見受けられ、土木技術者たちも読むたびにえりをただしているという。この地震の研究で
天災は忘れた頃にやってくる」という有名な諺を発明、現在も名諺として生きている。

 1924大正13年、理化学研究所主任研究員。地震の研究から割れ目の研究をする。
 1925大正14年、帝国学士院会員。物理学全般、特に地球物理学を研究し日常のありふれた事柄にまで鋭い観察をし寺田物理学といわれる特異な研究で知られる。
このころから起電機によって生ずる電気火花の研究を始める。
 1926大正15年、同学地震研究所所員にも席をおき、潮汐や間欠泉の研究、電気火花の研究など、日常身辺の現象を研究対象とした。

 1927昭和2年、理学部勤務を辞す。
 1930昭和5年、山崩れ(土石流)についての研究を発表。
 1931昭和6年、「山村火災と不連続線」を発表。「ラウエ斑点の発見」で恩賜賞をうける。
 1933昭和8年、航空評議会臨時評議員。昭和9年、日本学術振興会学術部委員。
 1935昭和10年12月31日、東京本郷曙町で死去。享年58。
     葬式は谷中斎場、神式で営まれた。論文は200編以上にのぼる。
     『冬彦集』や没後の『橡の実』に至るまで近代日本文学史上最大の随筆家として讃えられる。

  “秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校(熊本県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/06/post-f59c.html
   “緑色の憂愁/寺田寅彦と夏目漱石”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2010/06/post-b7e8.html

    参考: 『気象ノート』藤原咲平(大正昭和期の気象学者・第5代中央気象台長)1948蓼科書房 / 木這子:東北大学付属図書館報.32. / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 /  『民間学事典』1997三省堂 / 『コンサイス日本人名辞典』1993三省堂

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2018年5月19日 (土)

仙台史跡めぐり(宮城県)

            東北大学図書館
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 図書館大好き、近所の図書館はありがたい。さらに大学の図書館はうれしい。閉架書庫に泊まり込んで好きなだけ資料を漁りたいくらい。しかし入館できない大学図書館もある。残念だが仕方がない。又、あまり遠いと行かれない。ところが仙台にいく機会があり、東北大学図書館に行ってみた。

 その日は雨で木々の濃い緑がしっとり、天まで伸びた樹木と建物が調和していい光景。勉強しすぎて疲れてもキャンパスの緑に癒やされるでしょう。タクシーをおり、聞くまでもなく図書館はすぐにわかった。入口を入ってすぐ右に、魯迅と藤野先生の像があり思わず、「あぁ、東北大学!」
  
   “仙台医学専門学校、藤野先生と魯迅(宮城県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2015/08/post-4c00.html
    “魯迅「藤野先生」(現東北大学・仙台医学専門学校)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/10/post-dc8f.html

 東北大図書館はさすがに東北ならではの書籍がならんでいた。片端から読みたかったがそうもいかず、3時間位いて外に出た。帰りはスクスク伸びた樹木の緑をたのしみつつ歩いて、学校近くの国際センター駅から地下鉄で仙台駅のホテルに戻った。
 けやきが大好きでペンネームにしているが、都心はもとより近郊の樹木はほとんどが剪定されている。それを見なれてるから思いっきり、好きなだけ、天まで伸びた木をみるといいなあと思う。

           土井晩翠・晩翠草堂

 仙台駅前のバス乗り場から、主な観光地を循環する<るーぷる仙台>号がでている。一日乗車券大人620円、乗り降り自由で自分のペースで楽しめていい。バス停は16あるが、のんびりしすぎて数カ所しか見学できなかった。その最初が晩翠草堂。 バスは満員だったけど下車したのは私だけ。仙台に来たら青葉城、♪荒城の月、土井晩翠でしょと思うが人の興味は様々ですね。
 草堂というとおり、住まいはこぢんまりしている。戦災で住居と蔵書を失った晩翠のために、教え子など市民有志が中心となり、旧住居跡に建設されたものと教えてくれたのはボランティアの方。ご当地ならではの話や展示物の解説が聴けてよかった。次の年譜は仙台文学館発行パンフレット「土井晩翠」から。

 1871明治4年、仙台市北鍛冶町(青葉区木町通)に生まれる。
    実家は大きな質屋で裕福。漢学を学び、斎藤秀三郎の仙台英語学校に通う。
 1894明治27年、第二高等中学校卒業。東京帝国大学英文科に進学。
 1896明治29年、雑誌『帝国文学』編集委員。
 1898明治31年、カーライル『英雄論』翻訳出版。帝国文学に「星落秋風五丈原」発表。

     “愛誦の楽しみ、土井晩翠(宮城県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2012/06/post-6430.html

 1899明治32年、第一詩集『天地有情』出版。
 1900明治33年、母校の教授として郷里の仙台に帰る。
 1901明治34年 ~ 1943昭和18年、
       【晩鐘/東海游子吟/曙光/天馬の道に/チャイルド・ハロウドの巡礼/アジアに叫ぶ/神風/イーリアス/オディッセーア】

 1902明治35年、イギリス滞在中の晩翠はロンドン郊外の港で、病気のため留学半ばで帰国する船上の滝廉太郎を見舞った。これが、「荒城の月」作詞者と作曲者のただ一度の出会いであった
 1945昭和20年、敗戦。
 1949昭和24年、仙台名誉市民。翌25年、文化勲章。
 1952昭和27年8月、仙台城址に「荒城の月」詩碑建立。
      10月19日、逝去。満80歳。

            仙台城趾

 城跡に立つと仙台市内が一望できてなかなかいい眺め。しかし、見渡す限りのその地が、戦災、空襲、大震災と大きな被害にあったことを考えると胸が痛む。さらに高い所から城下を見下ろす伊達政宗公は何を思うだろう。

   “伊達政宗騎馬像、彫刻家・小室 達 (宮城県)”
  http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2017/07/post-f986.html

 1868明治元年、仙台藩降服。
    仙台城の本丸にあった大広間などの建物は、明治なり政府に売却され、取り壊されたが、二ノ丸、三の丸は軍の施設など利用されたため
明治になっても多くの建物が残っていた。

 1871明治4年、東北鎮台(後の仙台鎮台)を仙台城二ノ丸に移す。
   “東北鎮台(軍団)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/04/post-3861.html
 
 1874明治7年ごろ、仙台城本丸が破却される。お城があったのに壊されて木材は売られてしまったという。
 1882明治15年、残っていた二ノ丸が火災で焼失。
    ・・・・・・
 1945昭和20年、アメリカ軍の仙台空襲。大手門・脇櫓。巽門焼失。
 2011平成23年3月11日、東日本大震災により、石垣や土塀が被災。
    本丸石垣や中門石垣・清水門石垣が崩落したり変形して崩れかかる被害がでた。

    参照: ガイダンス施設<仙台城見聞館>パンフレット・ワークシート。

 

         日本の水力発電発祥・三居沢発電所

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 立派で見栄えもする仙台藩祖・伊達政宗公霊屋、瑞宝殿を見学する人は多かったが、三居沢発電所バス停で降りた人は自分だけ。運転手さんに教わったように川沿いの道をいったが、水力発電所らしいものが見当たらない。そのうち、こぢんまりした三居沢電気百年館があった。水力発電所というのでダムを思ったが、ああ勘違い。

 三居沢発電所は広瀬川の水を動力として使用する、全国でもまれな市街地にある発電所。現在は出力1000kwの水力発電所と配電用変電所として、いまなお電気をつくり続けている。
 電気百年館の2階のベランダにでると写真のような光景が見られる。歴史的な趣があるが今も仙台技術センターから遠隔監視・制御されて発電しているという。
 三居沢の先駆者たちとして菅克復・伊藤清次郎・藤山常一の名があがっている。

  “仙台の交通と電気、電狸翁・伊藤清次郎 (宮城県)”
 http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2016/04/post-2e19.html

 なお、発電所建屋は、「国指定有形文化財」として登録。発電所と所蔵物が「近代化産業遺産」、発電所関係機器・資料群が「機械遺産」としてそれぞれの機関から認定されている。

 1888明治21年、宮城紡績会社工場内の水力を利用して、出力5kwの直流発電機で、工場内50灯、鳥崎山に1灯のアーク灯をともす。
 1894明治27年、三居沢の水力発電を利用して、仙台電灯株式会社が伝統事業を開始。仙台市内に365灯の電灯をともす。
 1902明治35年、三居沢で日本最初のカーバイトの製造に成功。
 1910明治43年、現・三居沢発電所運転開始。
 1912大正元年、仙台市電気部に譲渡。
 1942昭和17年、東北配電に継承。
 1951昭和26年、東北電力に継承。
                     
   参考: 東北電力<三居沢電気百年館>

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2018年5月12日 (土)

会津ゆかりの芝公園、増上寺 (福島県)

 5月の連休が終わった平日の朝。JR仙台駅の上にあるホテル、カーテンを開けるとどうやら雨がポツポツ。この程度なら戸外も大丈夫、一日乗車券を買って観光へ。
 バスは出発時すでに満員。リュック姿の中高年男女、外国人もちらほら、そして中学生の一団が賑やかで楽しそう。そこへバスの運転手さんが中学生に慣れた口調で「会津から来たの?」 何で判るの?と中学生。運転手さんは「毎年いまごろ来るから」といったあと、「降りる時はおつりがないから、3人5人纏めて払って」などやさしく諸注意。それから冗談を交えながら観光案内をはじめると、みんな耳を傾け、窓の外を見る。ふと、目の前の中学生から、明治初めの会津少年を連想した。
 戊辰戦争に敗れ賊軍の子とされた彼らは勉学する機会を得るのが容易ではなかった。しかし、会津人はどこに行っても、食うや食わずでも、意欲を失わなかった。本州の北端、下北半島・斗南でも藩学校を開設し、謹慎が解けたあとは増上寺の境内に学校を設けた。東京タワーが建つ東京港区の芝公園内で、その歴史や史跡が『紙碑・東京の中の会津』に詳しい。
 どの頁にも「東京の中の会津」が息づいているが、そのなかから特に芝公園と増上寺を参照させてもらった。明治の一郎こと山東直砥が居を構えていたからである。それに加えて、大蔵経の活版印刷をした山東が世話になったのも増上寺で、会津もまた深い縁があった。いつかまた増上寺にいったら三解脱門の重量感に歴史を感じるだけでなく、いろいろ見てみたい。

        佐瀨 得所
                  幕末・明治期の書家

 1822文政5年12月11日、陸奥国会津に生まれる。
    名は恒。字は子象。通称は八太夫。別号に松城。
    幼いころから書にしたしみ、欧陽詢・趙子昂らの書をまなぶ。
    会津第一の書家と称され、備中松山藩板倉侯の姫君付き奥祐筆となる。
 1868明治元年、会津娘子軍隊長となった中野竹子の書の師でもある。
    長崎で清国の人に学び、清(中国)へ留学。書法を研鑽。
    東京で子弟に教える。
  晩年、「修斉廉節」の大字が明治天皇の御覧に浴す。

 1878明治11年1月2日、東京で没す。57歳。 墓は杉並の西照寺。
      4月、増上寺放上池の側に表徳碑「佐瀨得所翁遺徳碑銘」が、前田利嗣・寺島誠一郎ら200余名の義捐によって建てられる。碑の下には愛用の大筆が埋められた。祭文は明治の歴史家・漢学者、重野安繹(成斎)で、「新撰東京名所図会」に収録されている。
 著作・書、「楷書楽志論」「運筆階梯」「帰去来の辞」「行書千字文」「唐詩乗」など多数。

       増上寺徳水院

 江戸時代、増上寺一帯には増上寺を囲んで寺院48寺、学寮150~160軒があったようで、これらの諸寺院はそれぞれ大名の宿坊に割り当てられていた。その一つ徳水院は会津藩の宿坊であったが、戊辰戦争後、350人の旧藩士が謹慎させられた。
 ちなみに、柴五郎の謹慎場所は一橋門内の御搗屋。

    “都心にのこる幕末明治、会津藩士の収容所跡(東京都・福島県)”
   http://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/12/post-c82d.html

   謹慎が解除されると、徳水院は旧藩子弟のための洋学塾仮校舎となり、1870明治3年5月5日、開校する。
   校長は竹村幸之進(俊秀)、のち*思案橋事件で斬首される。
   教官は旧幕臣の洋学者・千村五郎一人。
   生徒は選抜された、*山川健次郎・*井深梶之助・*柴四朗ら20~50名。
   千村は幕府の開成所の教官で、開成所が出版した英和辞典編纂者の一人。ただ、この千村がわずか3ヶ月ほどで去り、学校は廃止される。その後は各々で勉学の場を求め、柴四朗は早稲田の山東一郎の北門社新塾で学び(『明治の一郎 山東直砥』)、山川健次郎は沼守一の塾などで学んだのちアメリカ・イエール大学に留学する。
   短い期間ではあったが、英語や当時出版された『西洋事情』などで最新知識にふれたことは大きかった。生徒は意欲はあったがいつもお腹を空かせていて、池の魚を捕らえて食べることもあった。この徳水院はのち廃寺、今は残っていない。

 
 *山川健次郎: 明治・大正期の物理学者、教育家。東京帝国大学総長。
 *井深梶之助: 明治・大正・昭和期のキリスト教会指導者。
 *柴四朗: 東海散士『佳人之奇遇』著者。衆議院議員。長兄は柴太一郎、弟は柴五郎。

       

           思案橋事件

 1876明治9年、熊本の神風連・秋月・萩で反乱があり、東京では思案橋事件がおきた。政府に対する不満から事件をおこし、首謀者は旧会津藩士の永岡久茂(敬次郎)である。
 永岡は前原の挙兵(萩の乱)に呼応、十数人で思案橋から舟で千葉に向かった。千葉県庁を襲撃、官金を奪いその金で味方を集めようとしたのである。しかし、船頭に怪しまれ失敗。竹村幸之進もこれに加わり処刑される。
 また、柴四朗と五郎の姉の子、木村信二も一味であった。なお、甥といっても木村は五郎より年上である。木村は警官隊と乱闘になり巡査を斬って逃げたが、越後長岡で捕まり懲役十年の刑を受け、石川島監獄に入れられる。

           青 松 寺

 増上寺の北部で愛宕山の南、江戸曹洞三か寺の一つという古刹が万年山青松寺。江戸時代は貝塚と呼ばれていた。明元元二郎・陸軍大将の墓があるが、会津人の墓は見当たらない。
 この青松寺において、1922大正11年9月25日、東海散士・柴四朗の告別式が行われた。ちなみに、明石が台湾総督時代に急死したあと、台湾軍司令官となったのが柴五郎であった。時の首相原敬は武官総督制から文官総督制に変更、総督は田健次郎。参議院議員をつとめた田英夫は健次郎の孫。
          
   参考: 『紙碑・東京の中の会津』牧野登1980日本経済評論社 / ニュースで追う『明治日本発掘』1994河出書房新社 / デジタル版 日本人名大辞典+Plus  / 国会図書館デジタルコレクション 

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